山手グランギニョル
そう云う声がして、臨也が向き直ると、車掌の顔は正臣になっていた。
「愛があるって? おかしいなぁ、あんた何にも持ってないじゃないすか」
其の言葉に、臨也が唾を飲み込んでいると、次々に車掌の顔が変わる。
「非日常に憧れてるのは、僕じゃなくて臨也さんの方なんじゃないですか?」
「人間を愛してる? 笑っちゃうわね。私が愛してるのは誠二だけ。其れで充分だわ」
「私は欠けた人間です、あなたもそうですね、愛することが出来ない」
「私は愛されてる、化け物でも愛してくれる人がいるっ」
色々な顔で、色々な言葉が、臨也に浴びせかけられる。臨也は呆然とした儘其れを聞くしか出来なかったが、新羅の言葉にやっとのことで、己から離れかけていた意識を引き戻す。
――臨也、君は静雄君が羨ましいんだろう?
「冗談じゃないっ! 何で俺があんな奴を羨ましがらなきゃならないんだよっ。俺は人間を愛してるっ。愛ってのは見返りを求めないものだろ?」
臨也は一息にそう叫ぶと、俯いて肩で息をした。皮膚の下をざわざわと不快感が駆け回り、胸の命を刻む音が、脈打つように耳の奥で喚き散らしている。
「其れで満足出来るんですか?」
頭の上から、あの、音の割れたラジオから紡がれるような声が落ちて来る。
「本当に満足しているのですか? していないでしょう、出来ないでしょう。あなたは聖人じゃない」
臨也は己の耳に転がり込んで来る声と云う名の音を黙って受け入れ続けた。外耳から流れ込んだ其れらが鼓膜を振るわせる度、胸が締め付けられる。時折、巫山戯たように口にする「皆ももっと俺のことを愛すべきだよね」などと云う言葉は、度合いは如何あれ間違いなく本心だった。己の中に息を潜めている感情、其の存在を認めた時だった。
――臨也。
聞き覚えのある、忌々しい、気に喰わない、憎らしい声。其れが己の名前を紡いだ。臨也はがばりと俯いていた顔を上げる。平和島静雄が、臨也を見下ろしていた。
「……シズ、ちゃん」
臨也は思わず、何時も彼が厭がっている、彼の呼び名を口から洩らした。けれど、静雄は怒りをあらわにするどころか、悲痛な面持ちで臨也を見つめて来る。其の眼には、哀しみやら憐みやら、普段の彼からは絶対に自分に向けれられないであろう感情が、鮮やかな色を以て浮かんでいた。
……噫、こいつは何か云うつもりだ。根拠なく、臨也はそう思った。そして、其れが自分にとって明らかに好からぬことである、とも思った。仕方なく臨也は静雄に、何も云うなと釘を刺した。けれど、静雄は先程から変わることなく黙った儘で、臨也の言葉を了承したのか、そうでないのかすらも分からない。一体此の男は何処まで自分を不快にさせるのか、と臨也は苛々を募らせ、座った儘動けないでいる自分を見下して来る静雄を睨んだ。すると、静雄の唇が僅かに動く気配を萌す。噫、云うな……。そうは思ったけれど、臨也に其れを止めることは叶わなかった。
――可哀想に。
其の言葉で、臨也は目を覚ます。目の前に、一人の人間が臨也を見下ろすようにして立っていた。
「お客様、終点品川で御座います。車庫に入りますので、お早めに御降り下さい」
そう云うのは、あの顔の無い車掌でも無くて先程まで自分を見下ろしていた平和島静雄でもなく、少し草臥れた顔をしたJRの職員だった。 ……あれ? 丸ノ内じゃない。何時もと違う状況に驚きながらも、臨也は「すみませーん」と云い、立ちあがろうと足に力を込める。すると、脹脛の辺りに痛みと何か液体がじわりと伝わって来るのを感じた。ややよろけ気味に立ちあがる臨也を見て、大丈夫ですか? と職員が訊ねてくる。ちらちらと臨也の口元に目を遣る様子を見て、臨也は舌先で口の端を舐めてみた。塩気のある鉄臭さ。
「あぁ、大丈夫です、すみません」
臨也はそう云うと、そそくさと電車を降り、改札へ向かう。足から流れ出る血が、靴下を濡らしてやけに靴と擦れる。其の不快感と全身に残る鈍い痛みを抱えながら、臨也はさて如何したものか、と軽く溜息を吐いた。
時刻は午前1時半近く。もう電車はない。此処は品川。新宿は遥か向こう。仕方ないからタクシーを使おうにも、丁度出払ってしまった後らしくプールに1台も見当たらない。 ……ついてない、と臨也はまた溜息を吐くと、如何してこんなことになったのかを考える。
意味も無く池袋に行き、静雄を見つけ、彼の色々を眺めた。其の後、臨也は何時も通り彼と殺し合いをした。其の時、何時もなら適当な処で上手いこと離脱するところを、其れが出来なかった。酷く苛ついていた自分を思い出す。何時も以上に、静雄のことが憎くて憎くて、本当に憎くて何処までも憎くて仕様がなかった。だから何時も以上に静雄を煽った。
「……そしたら此のざまだ」
恐らく、今日の自分の態度に本当に頭にきて、何時も丸ノ内線に放り込むくせに態と山手線に臨也を放り込んだのだろう。臨也は静雄のことをそう思った。
「山手線ぐるっと回っちゃうもんね、俺のこと、誰も新宿で降しくれない」
……シズちゃんらしいや、と付け足すと、臨也は、あははっ、と嗤う。けれど、すぐに嗤いを治め、思案に耽る。あの胸糞悪い夢は一体? 何時から見るようになった? 何かに憑かれたんだろうか? また見るんだろうか? そんな疑問が、額に渦巻く。どれもはっきりしたことは分からない。全て憶測でしかない。噫、其れこそ不毛だ。臨也がそう思っていると、空車のタクシーが何台かまとめてロータリーに入って来るのが見えた。
其の内の一台に乗り込むと、「新宿まで。寝過ごしちゃってね」と運転手に告げる。
「遅くなっちゃってすみませんね、途中で夜間工事してるものですから」
そう云う運転士に「だぁれもいなくて淋しかったなぁ」と巫山戯たように返すと臨也は黙って窓の外を眺める。或る交差点の信号待ちで、静雄と同じくらいの身長の青年が恋人と思われる女性と仲睦まじく歩いているのが目に入った。其れをくだらないものでも見るような眼付きで眺めてから少し遅れて、臨也は或ることを思い出す。
夢を見るようになったのは、静雄でも仕合わせそうに笑うのだと知った日からだった。
(2010/05/23)