山手グランギニョル
「シズちゃんは愛されてるって? 誰に? あんな化け物みたいなシズちゃんが愛されてるって? 誰かを愛してるって? そんなことあるもんか。シズちゃんは逃げてるんだから、愛することからも愛されることからもね」
云い切ると、臨也はセルティに勝ち誇ったような笑みを向ける。 ……そう、シズちゃんは誰にも愛されない、怖がられて、孤立していればいいんだ。そう胸の裡で呟く臨也の耳に、嗤い声が届く。セルティが突然肩を震わせて、可笑しそうに笑いだしたのだ。呆然と其れを見ていると、セルティは嗤いを堪えるように、臨也に云う。
――其れはお前だろう? 其の言葉に、臨也は眼を見開く。
「孤立しているのはお前だ。静雄はちゃんと愛されてる。罪歌にも、人間にもね。静雄の周りにはあんなに人がいるじゃないか」
そう云うとセルティは一等車の中を指差す。相変わらず静雄の表情は見えないが、静雄が座っている席の傍の通路には、周りの席には、新羅、茜、トム、そして帝人や正臣の姿まで見える。
「其れに、静雄は愛してる。弟を、平穏を、自分を囲む温かい空間を愛してる。其れを知らないのは、お前が誰も愛していないから、愛そうとしないからだ」
そう云うと、セルティは高らかに嗤う。臨也は滅多に見せないような、怒りで歪んだ表情をすると、化け物の癖に、と小さく洩らす。すると、ぴたりとセルティは嗤うのを止める。其れから、……化け物、と一言呟くと突然自分の髪の毛を鷲掴み、勢いよく引っ張った。セルテイは綺麗にとれた己の首をゴミでも捨てるかのように床に放った。何時もの首の無い姿に戻ると、セルティは両腕を広げ、話し続ける。声は、臨也の頭に直接響いてくるようだった。
「そうだ、私は化け物だ。だけど愛してる、愛されてる。私は愛されてるっ!」
そう云うとセルティは嬉しそうに、其の場をくるりと回って見せる。そうして、臨也に近づくと一言斯う云った。
――可哀想だな、人間の癖に。
ひゅうっ、と云う音がする程息を吸い込み、臨也は眼を覚ました。視界に飛び込んできたのは見慣れた自室の天井で、自分が横たわっているのはきちんとした布団。酷い寝汗に、着ているものが肌に纏わりつく。
「……最悪っ」
そう呟きながら、臨也は額の汗を袖で拭う。まだ夜が明けてからそうそう時間が経っていないようで、窓の外はうっすらと明るく、雀が囀っているのが聞こえる。臨也はベッドから這うようにして出た。携帯端末を探しだし、其れから今日の予定を確認すると、カーテンを開ける。目の前の空はどんよりとした曇が厚く垂れ込めていた。
「……来ちゃった、来ちゃったなぁ。何ぁんで来ちゃったんだろ」
そう云いながら、臨也は池袋駅を東口に向かう。予定など、何もなかった。仕事の依頼も無かったし、池袋に用事などもない。ただ、何となく来てしまった。今朝の夢が酷く引っ掛かる。事務所に居たくはなかった。波江は相変わらず基本的には無口であるし、一緒に居て楽しくはない。新宿は今日も人が溢れていて、人間観察には困らなかったが、何か違う。求めるものが何処にも見当たらない。
気が付けば、臨也はふらりと池袋にやって来てしまった。本当に何をしたかった訳でもなく、誰かに会いたい訳でもない。ただ、酷く気にはなっている。一体如何して自分は続きもののような夢を見るのか、如何してあんな酷いことを夢に見たのか。其れが、臨也の胸にこびり付くようにして、重く圧し掛かっている。
「一体何時から、あの夢を見るようになった?」
いくら考えても、よく思い出せない。きっと切欠があったはずなのに、其の破片すらも、額を掠めたりはしなかった。仕方なくカフェで一休みをした後、当て所なく臨也は池袋の街を彷徨い続けた。
とある路地を曲がりかけ、臨也は慌てて其れを中断すると、角からこっそりと前方を窺う。臨也の視線の先には、田中トムとヴァローナ、そして静雄がいた。三人は立ち止まると、何か話している。すると、静雄がトムに頭を下げた。
……ははぁ、如何せまた取り立ての最中に暴れたんだろ。臨也がそう思っていると、トムが何かを口にし、下げられた静雄の頭を撫でた。静雄は頭を上げ、先程トムが撫でたところに自分の手を遣ると、はにかんだように笑う。
其れを見て、臨也はずきりと胸に痛みを覚え、そんな自分に疑問を抱いた。
其の後も、臨也は静雄の後を追う。彼らの事務所前でトムと一度別れると、静雄はヴァローナと一緒に南池袋公園に向かった。途中の自販機でコーヒーを二缶買い、静雄は一本をヴァローナに渡す。そうして噴水の辺りに座って会話をしているのを、臨也は少し離れた所から見ていた。暫く二人は静かに会話していたが、或る時ヴァローナが口を開きすぐに俯いた際、静雄は拳を作るとこつんとヴァローナの額を小突く。其れから何か云って、小さく笑った。其の時も、臨也の胸は何故か痛んだ。其の後も様子を窺っていれば、色々な人間が静雄の処へ入れ替わり立ち替わりやって来た。
セルティに、学校帰りの帝人に杏里に正臣、茜に、通りかかったらしい門田たち。其の度に、静雄は笑ったり、しっかりと笑わなかったとしても柔らかい表情を見せた。どれも、臨也には見せることの無い表情だった。
「……シズちゃんは随分、仕合わせ者なんだなぁ」
そう云うと、臨也は其の場から静かに去る、全身の皮膚の下が、ざわめくような感覚を覚えながら。
がたんごとん、がたんごとん……。耳から入ってくる音に、臨也は揺蕩っていた意識をしっかりと手中に収めたが、目を開ける気にはならなかった。 ……如何せ、また不快な思いをするんだ。そう思うと、もう夢など見たくなかった。夢など見ないくらいに、深く深く眠りこけて、意識と云う次元の底で静かに息をしている泥に溶けていたい気分だった。けれど、其れが許されないのを臨也は知っている。斯うやって目を閉じて黙っていても、其れは確実に自分の元へやって来て、臨也を惑わせるのだ。
――ほらこんな風にね。
そう気配を感じて、臨也は目を開けた。座っている自分を見下ろすようにして、目の前に顔の無い車掌が立っている。如何もぉ……、と臨也は気怠さを以て挨拶をする。車掌は帽子のつばに少しだけ手を添えて軽く会釈をしたが、黙って臨也を見下ろしているだけだった。黙っていても仕方がないので、臨也は独り言のように、抱えていることを吐露することにした。
此れは、此の夢にはどんな意味があるんだろうね。其れに何時からこんな夢を見るようになったのか思い出せないんだよ。まぁ、そんなことは如何でもいいんだ。ただねぇ、……非常に不愉快だ。俺は、全く不愉快だよ、其れにがっかりだ。何て不毛なものを見せるんだろうね、俺の脳は。夢は深層心理の表れだって云うけど、此れがそうだって云うならちゃんちゃら可笑しいね、嗤っちゃうよ。愛だとか何だとか、そんなもの、俺にはあるじゃないか。
そう云うと、臨也は少し間を開けたが、すぐに大きな溜息を吐く。車掌は臨也に何の反応も示さずに、ただ突っ立っていただけだったからだ。臨也は両腕を広げて肩をすくめると、仕方なく振り返り、自分の肩越しに窓の外を見る。外は相変わらずの闇。 ……あぁーあ、不毛だ全く。そう胸の裡で呟いた時だった。
「嘘吐きっすねぇ、臨也さん」