Sitting, Waiting, Wishing
フローリングに転々と水たまりを作りながらも家に入ると、妖精たちがやかましく世話を焼いてくれた。まっさらなタオルを出してきてくれ、剪定鋏が錆びないように二人掛かりでよく手入れをしてくれ、そのあいだにイギリスはシャワーを浴びた。ドライヤーを使い終える頃にはすっかり元通りのイギリスが鏡の中に立っていたけれど、その表情はやはり突然の雨をもたらした雲のような色をしていたのだった。顔を隠すように頭からタオルをひっかぶり、リビングへ向かう。靴はひどく濡れてしまったので、イギリスは一瞬の思いつきで妖精に来客用の仕立ての良いスリッパを出してきてもらい、足を通した。一応備えてはいるもののほとんど使われないそれは、まるで下ろしたてのようにやわらかくきれいで、清潔だった。イギリスが履くと少し踵が余る。ああでも、はみ出しちまうよりはいいだろう。と、誰にともなく呟いて、イギリスはシャワールームをあとにする。吐き出された言葉は密室内を反響して、やがて湿度を持ってそのまま静かに墜落した。
リビングへはすぐにたどりつく。青いカウチソファへ腰を下ろすと、イギリスは緩慢に両足を投げ出して目を閉じた。深く脱力する。妖精たちのひそかな話し声、通奏低音のような雨音のざあざあが耳から流れ込んで、ゆっくりと全身を満たす。雨のにおい。
アメリカ。
『ばかだなあ君は! 明日の雨も昨日の雨も違う雨じゃないか』
アメリカはハンバーガーを片手に笑って言った。
よく来たなアメリカ、こっちきて座れよ。イギリスは姿勢を正して手招きをする。アメリカはそれを無視する。ああ、外は雨がすごかっただろ?どこも濡れてないか? 靴は?俺のお気に入りのカーペットをくれぐれも汚さないでくれよ。アメリカはそれもまた無視して、その青い眼でイギリスを見つめた。それはまるで雲の上の澄んだ空のような色で、からりとして明るいところから見下ろされているようだ、とイギリスは思う。
『なあ、だからわざわざ昔のことなんか思い出さなくていいんだぞ』
「……なんだそれ」
『ショギョームジョーだよ! 日本に教えてもらったんだ』
アメリカは悪びれない。手にしたハンバーガーを咀嚼し尽くして飲み込んでしまうと、包み紙をそのへんに無造作に放り、そのうえ汚れた手を軽く払ってみせた。カーペットを汚すなって言っただろ。イギリスは無性に泣きたい気分だった。
カーペットにはアメリカの食べかすひとつ落ちない。包み紙も落ちない。アメリカは悪びれない笑顔を太陽みたいに振りまいている。イギリスは眩しいばかりの笑顔から目をそらし、深く肩を落としてがっくりと項垂れる。
(妄想のアメリカと会話する俺……)
外はまだざあざあ降りだった。色とりどりの花々は一様に暗く重い空気に覆われて、ただ雨雲が去るまでじっと耐えるばかりだった。
今度はイギリスがアメリカの忠告を無視する。
冷たい雨の音がイギリスの思い出をいっそう深く沈ませていく。向けられた銃口。白い息。かじかむ指に痛むからだ。いつだってイギリスは昨日のことのように思い出すことができる。もうずっと昔のことで、ただ外形だけを保って中身を失ってしまい、かわりに後日の感傷ばかりを流し込んだような思い出だったけれど、アメリカが最後に向けた背中の大きさは克明に覚えているのに、あの雨がいったいいつ、どうやって止んだのかについては、どうしても思い出すことができなかった。アメリカは雨雲の向こうへと消えてしまう。イギリスはそれを呆然と見ている。行かないでくれ、行かないでくれ、頼む、頼むアメリカ、と叫ぼうとしたところで、視界がぼやけて何も見えなくなってしまった。
イギリスはずいぶん長いあいだ目も唇も結んで項垂れつづけ、ときどき薄目を開けてはぎゅっと閉じるのを繰り返した。昔のことなんか思い出さなくていい、なんて、イギリスには到底できそうもない、途方もないことのように思えるのに、妄想のアメリカにさえ自分に都合のいいことを言わせることができない。イギリスは何度もそれを試みて、でも結局はすべて言葉になる前に口の中や、悪くすれば腹の中からすら出てこないままだった。言えなかった言葉は雨を含んでどんどん重さを増して、イギリスの体内に海のように流れ込み、ささいなことでも大きな波を起こすのだった。
「アメリカ」
『ん?』
「うち来いよ」
ようやく音にできた言葉はあまりにも単純で、おそろしく切実だった。イギリスのみどりの眼はアメリカを映し、けれどイギリスはそれを見てはいなかった。窓の外、雨雲の果て。まだ晴れそうな予感はない。祈るようにイギリスは言った。
なあ、アメリカ。
「遊びにでも飯食いにでもなんでもいいから」
そうじゃないとおまえ、
(俺の家の妖精になっちまうぞ)
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090718
作品名:Sitting, Waiting, Wishing 作家名:iyd