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習作 弐

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◆ 午睡 ◆





真冬の屋上は、得てして寒い。
しかし時には風が止み、ぽかぽかと暖かい日差しが降り注ぐことがあった。
幸いにして今日はそんな暖かな日で、東京都心の最高気温は二十度にも届こうかと言う程らしい。確かに暑いな、と声には出さずに呟いて、千馗は漏れそうになった欠伸を噛み殺した。
ぼんやりと眺めた空には柔らかそうな雲がぷかぷかと浮かび、春を思わせる陽の光は温かく、柔らかく。昨日までは霜が降りるような寒さだったのになぁ、と口の中だけで呟いて苦笑を零したが、決してこの温かさに異論を唱えるつもりはない。むしろ、最近では寒くて過ごし難くなっていた屋上が今日は絶好の昼寝日和なのだから、諸手を挙げて歓迎したい気分だった。
既に午後の始業を告げるチャイムは鳴り終えた後で、教室では古典の授業が行われている筈だ。自分達がいない事に気付いた弥紀はどうしているだろうか、とふと思う――真面目で大人しい優等生を絵に描いたような弥紀だが、あれで存外肝が据わっていて恐いもの知らずな一面がある。或いは欠席している自分達を探しているかも知れないとも思ったが、ポケットの中の携帯電話は沈黙したままだ。彼女のことだ、屹度隣と斜め後ろの席が空いていることを不審に思いつつ、大人しく授業に耳を傾けていることだろう。
「んー・・・・」
そんな千馗の内心の声が聞こえたものか、不意に不明瞭な声が耳元を擽る。次いでかくん、と小さく身体を揺さ振られる衝撃。衝撃、とは言っても軽く掌で肩を押される程度のもので、如何に千馗が小柄であるとは言えそれで態勢を崩すことはない。逆にずるりと滑り落ちそうになる重さを巧く肩で支えながら、隣に座る友人の身体を自分の身体に凭れさせた。
「・・・・良く寝てるなぁ」
囁くように呟いた声は、熟睡している彼の耳には届かなかったのだろう、むずがるように身動ぎした燈治は千馗の左肩に己の右肩を押し付け、心地良さそうな寝息を立てながら舟を漕いでいる。思わず声に出してしまった言葉にはっと口を噤んだ千馗ではあったが、燈治はそんな独り言にも気付いた様子はない。暫し息を潜めて燈治の様子を伺っていた千馗だが、彼がそれ以上身動ぎをする気配が無い事を確かめて、漸く大きな息を吐いた。
――今日は温かいから、屋上で昼飯食おうぜ、と。
そう燈治に誘われるがままに屋上に上がったのは、一時間ほど前の事だっただろうか。今日は温かいから先客がいるかも知れない、とは思ったものの、千馗の予想に反して屋上には誰もいなかった。これ幸いと日当たりの良い場所に陣取り、購買で買った昼食を食べつつ談笑をしているうち、暖かさに誘われて燈治は眠ってしまったらしい。徐々に会話の間隔が長く開くようになり、おやと千馗が彼の様子を伺った時、既に燈治は舟を漕いでいた。
酷く無防備な顔を晒して眠りこける燈治の表情は穏やかで、それを眺める千馗の口元も自然に緩む。流石に一回り、否、二周りは確実に自分より大きい彼の身体を肩と背中で受け止めるのは少々重かったが、いつになく近い体温が妙に嬉しい。
自分のことを恐れずに接してくれて、当たり前のように傍にいてくれる。
それが千馗にとって、如何に嬉しい事なのかを燈治は知っているのだろうか。
――素直に、有難うと言えることではないので、千馗自身も口にしたりはしないけれど、。
「・・・・うん?」
こくん、と燈治の頭が深く俯き、千馗の肩に顎が乗る。危うく互いの額をぶつけそうになり、慌てて千馗は首を仰け反らせた、が――燈治の身体は完全に脱力してしまったのか、或いは熟睡した勢いで寝惚けているのか、千馗の身体に一層圧し掛かってくる。
何だか最近こんなことばかりだな、と漠然と思いつつ、千馗は腹筋に力を込めて傾ぎそうになる身体を支えた。如何に身長で大分負けているとは言え、(そもそも体格自体が全く違うのだから比べるだけ無駄だ、と言うのは容赦のない某教師の一言である)千馗も男である以上はそれなりの意地があるのだ。このままずるずると燈治の身体に押されてしまえば、何とも奇妙な構図になることは目に見えていた。
それだけは避けたい、と思ったのだけれど、。
ふと燈治の寝顔を覗き込めば、彼はやはり熟睡しているのか、薄く開いた唇の透き間に涎が溜まっているのが見えた。今にも零れ落ちそうなそれが妙に目に付いてしまったのは何故なのか。
――そう言えば。
ふと千馗は、先日ぼんやりと眺めていたテレビ番組で得た知識を思い出す。曰く、ひとはリラックスしていると唾液の分泌量が増えるのだと言う。逆に緊張していると瞬間的に唾液の分泌が止まる為、口の中がカラカラと干乾びた感覚になるのだとか。
と言う事は、つまり。
千馗に身体を預けて眠りこける燈治は、今、酷くリラックスしていると言うことになるのだろうか。
否、そもそも気を許していない者の前で無防備に眠ることなど有り得ないのだから、千馗の思考はその出発点からして何処かがずれている。しかし秘法眼と言う特異な眼を持って生まれたが故、時に忌避されつつ生きてきた千馗の感覚がずれているのは致し方のない話である。友達、と呼べる人間がこれほど沢山出来たことさえ初めてで、それ故に距離感が掴めないのもまた事実。その為、時に前のめりになりすぎて『近過ぎる』と燈治に叱られる事も屡なのだけれど、。
――自分だって、近過ぎるじゃん。
そう声には出さずに呟いてしまい、千馗は声もなく苦笑する。
結局のところ、この関係が――少々近過ぎる位の距離感が、今は酷く心地良い。離れることは簡単で、だからこそ傍にいたいと思えたのは初めての経験だった。
「燈治」
よだれ垂れるよ、と小声で呼びかけては見たものの、燈治が目覚める気配はない。完全に熟睡している。余程疲れているのだろう、と独りごちた千馗の心底に過ぎるのは、喜びと罪悪感が入り混じった複雑なもの。燈治が傍にいてくれるから、付き合ってやるよと言って笑ってくれるから、つい洞の探索を毎日のように頼んでしまう。それが負担にならない筈はないのだ。
それを百も承知で燈治を誘う自分は、やはり酷い友人なのだろうかと漠然と思う。だが、燈治が傍にいてくれることで得られる安堵感は、他の何物にも変えがたい――照れ臭いから決して言葉にはしないけれど。
とは言え、千馗としても制服によだれを垂らされては堪らない、と言うのが本音である。心地良さそうに眠っている燈治を起こすのは忍びないが、このままでは確実に千馗の制服によだれの染みが刻まれてしまうだろう。そうなったらどう言い訳をすれば良いのか――目敏い生徒会長様に見つかった日には、サボりも含めてだらしないだの何だのと説教されるのは目に見えていた。それは出来れば避けたい。避けたいけれど、。
「あ、」
不意にぐら、と燈治の身体が小さく揺らぎ、舟を漕いでいた彼の頭が千馗の鼻先を掠める。その勢いで燈治の口の端に溜まっていた雫がぽたりと垂れる刹那、ふと千馗は好奇心で舌を伸ばしていた。
別に他意があった訳ではないのだけれど、。
作品名:習作 弐 作家名:柘榴