女王の髪結
ハンスは赤の女王の宮殿に仕える髪結師であった。宮殿の髪結処といえば、多くの貴人の訪れる第一級のサロンである。そこに勤める者は洗髪屋にしろ理髪師にしろ、他とは一線を画す腕を持つ。中でもハンスは赤の女王の専属髪結で、女王の整髪に関わる全てを一手に引き受けていた。
女王の専属。その立場だけでもハンスの腕前の見事さが知れると下々の者は思うであろう。しかし髪結師ハンスが赤の女王ただ一人を相手にするのには理由があった。赤の女王の髪の手入れができるのはハンスしかいない、と言い換えることもできるのだが。
『大頭のイラスベス』ーーそれが赤の女王の影の徒名であった。彼女は見たものを一瞬凍り付かせる程の異形 ーーその大きすぎる頭!ーー であり、またその炎のごとき髪の色にも似た激しい気性の持ち主である。そんな彼女に女王たるにふさわしい豪奢なヘア・スタイルを施すには、ただ髪を整える技術以外にも必要なものがあった。それはあの巨大な頭を支えることのできる腕力である。常人の数倍はあろうかというイラスベスの『デカヘッド』には、それに比例した重量があった。
ハンスは実は髪結師として第一の腕の持ち主というわけではない。彼はまだ少年のうちから髪結処の親方に弟子入りし、その実直で真面目な性格で日々研鑽に励んできたが、周りにいるのも同じように超一流を志す髪結たちである。むべなるかな、ハンスはその中で頭角を現すことはできず、常に中程の実力の持ち主として(もちろん宮殿の髪結処以外でなら立派に一つの店を背負ってたてるくらいではあるのだがーー)認識されていた。けして悪くはないが、わざわざハンスを指名する顧客はいない。その程度の髪結師であった。その状況が変わったのは、まだ幼き王女であったイラスベスの頭が、年を経るに連れて次第に尋常でない成長を見せ始めた頃である。
あまりに大きくなった、イラスベスの頭。しだいに一級の腕前を誇る洗髪屋の誰も、その大頭を一人で支えて洗うことができなくなった。その巨大な面積に流れる赤い大河のごとき髪を、一人でブローすることができる理髪師もいなくなった。大量すぎる髪をうやうやしくひとまとめにして捧げ持ち、貴婦人がよくするような塔のごとく高々と結い上げる髪型を作り上げることができるほど大きな手を持った髪結師も存在しなかった。ーーハンス以外には。
ハンスは少年時代から体格にめぐまれていた。髪結師よりも城の兵隊になる方が向いているのでないかとよくからかわれたほどだ。特に上半身の筋肉は鍛え抜かれた衛兵にも勝る発達を見せ、太い腕に宿る虜力も並々でない。手も常人の二倍はあろうかという大きさと厚みを持ち、小顔な婦人の頭なら片手ですっぽり覆えてしまう。
『大頭のイラスベス』ーーどんな異形であろうとはいえ彼女は王女、本来なら他の髪結師たちが譲るはずもない髪結処にとっての最上客であるのだがーー の専属に一介の髪結ハンスが選ばれたのは、皮肉にも彼女が気にしているその大きな頭のせいなのだ。
* * *
ーー 今日もまた一日が始まる。
朝の光を浴びながら、ハンスは自分専用の仕事部屋で営業準備をしていた。清潔なヘア・ブラシ、特注の大きなドライヤー、ぴかぴか輝く銀の鋏。沢山のピンや絹のリボン、美しい装飾の髪飾り。室内には特別に調合した薔薇の香りの香を焚く。その全てが、ハンスのたった一人のお客様を待っている。いつもの朝だ。
やがて廊下の向こうから聞こえてくる、女達の小鳥のようなさわめき。ドレスが奏でる衣擦れの音。そんな取り巻き達の中心に、押しも押されぬ女王としてイラスベスが君臨している。
お客様の来訪を察知して、ハンスは扉を開けた。思った通り、5メートル程先に我らが女王陛下とその御取り巻きの姿がある。床に片膝をついて頭を下げ、ハンスは女王を歓迎した。女王のドレスの裾の最後のひらめきまで室内に入ったことを確認して、付き従ってきた取り巻きの鼻先で扉を閉める。ハンスの仕事部屋に入れるのはイラスベスだけだ。女王は己の整髪される姿を有象無象に見られることを好まない。女王に即位してからハンスの、いや、自分専用の髪結部屋を用意させたのもそのためだ。
「おはようございます。女王陛下。本日もご機嫌麗しく」
言いながら、ハンスは椅子をひいて女王を鏡の前に座らせる。イラスベスは愚図が嫌いだ。手早くけれど繊細に、己の爪が彼女のうなじに触れさえもしないように気をつけて、ハンスはイラスベスの首にタオルを巻いた。そして背に薔薇の文様が刻まれたブラシをとりあげ、彼女の髪を梳き始める。
燃えるようなイラスベスの赤毛。それがなにも手を加えず、ただその背に流されている。髪結師の意見としてはおかしいかもしれないが、ハンスはその飾り気のない髪型が一番彼女に似合うと思う。イラスベスの髪は美しい。いや、イラスベスは美しいのだ。
ハンスは鏡の中の女王を見る。イラスベスは朝に弱い。彼女の朝はまず御付きの侍女に起こされ、お湯で顔を簡単に清められる。その後豪奢なドレスを着せられ、寝乱れて癖のついた髪や化粧を施していない素顔をさらしてハンスの元にやってくるのだ。そのためいつも眠りの続きのようにむっつりとしており、ハンスに言葉をかけることはほとんどない。そもそもハンスの存在など意識していないのかもしれない。姿を整える途中の様子をさらしても平気な召し使いなどに、女王陛下の心を惹くものはないのだろう。女王にとってハンスは髪を整える役目を与えたものであり、男ではないのだ。
美しい赤い髪のもつれがとけたところで、洗髪に入る。
本来なら宮殿の髪結処では、役割分担がはっきりしている。客に応対する者。髪を洗う者。理髪を担当する者。仕上げに髪を結ったりセットをする者。全て異なる者が行う。それぞれの分野のスペシャリストが腕を振るうのだ。けれどイラスベスは己の整髪に関する全てをハンスに一任している。理由はいわずもがなだ。何人もの人間が己の大きな頭を相手に悪戦苦闘する姿を見せられるのが嫌らしい。可愛いところがある、とハンスは思う。恐怖で民を押さえつけ、悪政を強いる女王でも、ハンスにとっては自分に価値を見いだしてくれたひとだ。
洗髪場には、リクライニングチェアとお湯が満たされた大きな陶器の水盆がある。水盆の上に頭がくるようにしてチェアの上にイラスベスを横たわらせる。首の下には蒸したタオルを敷く。鏡の前から洗髪場までの移動は、ハンスの虜力をいかしてイラスベスを抱えて運ぶ。毎朝女王を抱きかかえるなどという僥倖が許される男は他にいるまい。
女王の専属。その立場だけでもハンスの腕前の見事さが知れると下々の者は思うであろう。しかし髪結師ハンスが赤の女王ただ一人を相手にするのには理由があった。赤の女王の髪の手入れができるのはハンスしかいない、と言い換えることもできるのだが。
『大頭のイラスベス』ーーそれが赤の女王の影の徒名であった。彼女は見たものを一瞬凍り付かせる程の異形 ーーその大きすぎる頭!ーー であり、またその炎のごとき髪の色にも似た激しい気性の持ち主である。そんな彼女に女王たるにふさわしい豪奢なヘア・スタイルを施すには、ただ髪を整える技術以外にも必要なものがあった。それはあの巨大な頭を支えることのできる腕力である。常人の数倍はあろうかというイラスベスの『デカヘッド』には、それに比例した重量があった。
ハンスは実は髪結師として第一の腕の持ち主というわけではない。彼はまだ少年のうちから髪結処の親方に弟子入りし、その実直で真面目な性格で日々研鑽に励んできたが、周りにいるのも同じように超一流を志す髪結たちである。むべなるかな、ハンスはその中で頭角を現すことはできず、常に中程の実力の持ち主として(もちろん宮殿の髪結処以外でなら立派に一つの店を背負ってたてるくらいではあるのだがーー)認識されていた。けして悪くはないが、わざわざハンスを指名する顧客はいない。その程度の髪結師であった。その状況が変わったのは、まだ幼き王女であったイラスベスの頭が、年を経るに連れて次第に尋常でない成長を見せ始めた頃である。
あまりに大きくなった、イラスベスの頭。しだいに一級の腕前を誇る洗髪屋の誰も、その大頭を一人で支えて洗うことができなくなった。その巨大な面積に流れる赤い大河のごとき髪を、一人でブローすることができる理髪師もいなくなった。大量すぎる髪をうやうやしくひとまとめにして捧げ持ち、貴婦人がよくするような塔のごとく高々と結い上げる髪型を作り上げることができるほど大きな手を持った髪結師も存在しなかった。ーーハンス以外には。
ハンスは少年時代から体格にめぐまれていた。髪結師よりも城の兵隊になる方が向いているのでないかとよくからかわれたほどだ。特に上半身の筋肉は鍛え抜かれた衛兵にも勝る発達を見せ、太い腕に宿る虜力も並々でない。手も常人の二倍はあろうかという大きさと厚みを持ち、小顔な婦人の頭なら片手ですっぽり覆えてしまう。
『大頭のイラスベス』ーーどんな異形であろうとはいえ彼女は王女、本来なら他の髪結師たちが譲るはずもない髪結処にとっての最上客であるのだがーー の専属に一介の髪結ハンスが選ばれたのは、皮肉にも彼女が気にしているその大きな頭のせいなのだ。
* * *
ーー 今日もまた一日が始まる。
朝の光を浴びながら、ハンスは自分専用の仕事部屋で営業準備をしていた。清潔なヘア・ブラシ、特注の大きなドライヤー、ぴかぴか輝く銀の鋏。沢山のピンや絹のリボン、美しい装飾の髪飾り。室内には特別に調合した薔薇の香りの香を焚く。その全てが、ハンスのたった一人のお客様を待っている。いつもの朝だ。
やがて廊下の向こうから聞こえてくる、女達の小鳥のようなさわめき。ドレスが奏でる衣擦れの音。そんな取り巻き達の中心に、押しも押されぬ女王としてイラスベスが君臨している。
お客様の来訪を察知して、ハンスは扉を開けた。思った通り、5メートル程先に我らが女王陛下とその御取り巻きの姿がある。床に片膝をついて頭を下げ、ハンスは女王を歓迎した。女王のドレスの裾の最後のひらめきまで室内に入ったことを確認して、付き従ってきた取り巻きの鼻先で扉を閉める。ハンスの仕事部屋に入れるのはイラスベスだけだ。女王は己の整髪される姿を有象無象に見られることを好まない。女王に即位してからハンスの、いや、自分専用の髪結部屋を用意させたのもそのためだ。
「おはようございます。女王陛下。本日もご機嫌麗しく」
言いながら、ハンスは椅子をひいて女王を鏡の前に座らせる。イラスベスは愚図が嫌いだ。手早くけれど繊細に、己の爪が彼女のうなじに触れさえもしないように気をつけて、ハンスはイラスベスの首にタオルを巻いた。そして背に薔薇の文様が刻まれたブラシをとりあげ、彼女の髪を梳き始める。
燃えるようなイラスベスの赤毛。それがなにも手を加えず、ただその背に流されている。髪結師の意見としてはおかしいかもしれないが、ハンスはその飾り気のない髪型が一番彼女に似合うと思う。イラスベスの髪は美しい。いや、イラスベスは美しいのだ。
ハンスは鏡の中の女王を見る。イラスベスは朝に弱い。彼女の朝はまず御付きの侍女に起こされ、お湯で顔を簡単に清められる。その後豪奢なドレスを着せられ、寝乱れて癖のついた髪や化粧を施していない素顔をさらしてハンスの元にやってくるのだ。そのためいつも眠りの続きのようにむっつりとしており、ハンスに言葉をかけることはほとんどない。そもそもハンスの存在など意識していないのかもしれない。姿を整える途中の様子をさらしても平気な召し使いなどに、女王陛下の心を惹くものはないのだろう。女王にとってハンスは髪を整える役目を与えたものであり、男ではないのだ。
美しい赤い髪のもつれがとけたところで、洗髪に入る。
本来なら宮殿の髪結処では、役割分担がはっきりしている。客に応対する者。髪を洗う者。理髪を担当する者。仕上げに髪を結ったりセットをする者。全て異なる者が行う。それぞれの分野のスペシャリストが腕を振るうのだ。けれどイラスベスは己の整髪に関する全てをハンスに一任している。理由はいわずもがなだ。何人もの人間が己の大きな頭を相手に悪戦苦闘する姿を見せられるのが嫌らしい。可愛いところがある、とハンスは思う。恐怖で民を押さえつけ、悪政を強いる女王でも、ハンスにとっては自分に価値を見いだしてくれたひとだ。
洗髪場には、リクライニングチェアとお湯が満たされた大きな陶器の水盆がある。水盆の上に頭がくるようにしてチェアの上にイラスベスを横たわらせる。首の下には蒸したタオルを敷く。鏡の前から洗髪場までの移動は、ハンスの虜力をいかしてイラスベスを抱えて運ぶ。毎朝女王を抱きかかえるなどという僥倖が許される男は他にいるまい。