女王の髪結
水盆の中に赤毛が広がる。十分に髪を濡らしてから、ハンスはシャンプーを手にとり泡立てた。朝は爽快感のある檸檬と薄荷の香りの洗髪剤を選んでいる。
そっと髪に触れる。軽く全体に泡をいきわたらせてから、頭皮を中心に洗い始める。ハンスの長い指をブラシのように使って頭皮を撫でるように、髪を梳くように
洗う。時折頭を揉むように指先に力を入れる。髪の生え際やこめかみなどは、特に丁寧に押し揉んだ。しゅわしゅわと泡のはじける音とともに、爽やかな香りが場を満たす。気持ちがいいのか、イラスベスがため息をついた。泡を流す時は、後頭部に手をあてて持ち上げる。これができずに何人もの洗髪師が脱落していったが、屈強なハンスは片手でイラスベスの大頭を支えて息を詰めさえもしない。洗髪の最後には、首の後ろに敷いていた蒸しタオルで髪の生え際や耳までもそっと押さえる。耳は意外と冷たいものなので、蒸したタオルの温かさによって血が通い始めたかのような、わずかに痺れるようななんとも言えない心地よさがあるはずだ。
再び鏡の前に戻る。なめらかな髪の感触を楽しみつつ、ドライヤーで乾かしていく。特注の大きなドライヤーは普通の倍以上の風量を誇り、イラスベスの豊かな髪でも常人が普通のドライヤーで乾かすのと同じくらいの時間でブローを終えられる。しかしそれだけの大きさのドライヤーにはそれなりの重みがあり、それを片手に持ち続けながらその日のヘア・スタイルにあわせた流れを作っていくことは並の理髪師にはできない技だ。
そしてハンスの本職である髪結いに入る。今日はイラスベスの象徴たるハートを模したまとめ髪にするらしい。薔薇の香りの整髪料をつけて毛先をくるりと愛らしく巻き、いくつもの隠しピンを使って頭の上の方に二つのふくらみを作る。赤の女王。ハートの女王。髪を上げたために白いうなじが露になった。いつも思うのだが、頭の大きさに比べて驚く程華奢な首だ。ハンスの大きな手なら、親指と小指の先をあわせた輪の中に収まってしまいそうだ。こんなに細い首でこの大きな頭を支える負担ははかりしれまい。
そう考えながら、そっと女王の首に手をあてる。うなじ、ぼんのくぼ、と軽い指圧を加えながら撫であげていき、また下がってなだらかな肩まで揉んでゆく。肩は冷たく、凝っている。頭の重さもさることながら、ストレスがたまっているのであろう。癇癪持ちのイラスベスは、苛々していることが多い。
けれど衝動にまかせて気に入らない者の首をはねたところで、満足などできないのだろう。本当に求めるものが得られないなら苦しいままだからだ。彼女の一時の気慰みのために、今日はいくつの首が犠牲になるのだろう。ハンスはそんなことを考えつつ、目の前の肩をほぐしていく。けれどどうせ夜になる頃にはまたがちがちに凝り固まってしまっているのだ。自分の首は今夜まで無事についているだろうか。夜になればまた夜の洗髪やらマッサージやらのためにイラスベスがやってくる。今夜もまた、このひとに触れることは叶うだろうか。ハンスは毎朝そう考える。単に己の首の心配をしているわけでは、ない。
髪型を完成させたイラスベスを送り出すと、取り巻きの女達が歓声をあげて女王を褒めそやす。お美しいの、お綺麗のという声達が遠ざかっていくのを、ハンスはぼんやりと見送る。この後イラスベスはこれまた一流の化粧師に顔を整えられ、側近が彼女の頭にうやうやしく王冠をのせ、それで『女王』の出来上がりだ。使った道具を片付けながら、ハンスは化粧師の気取った声を思い出す。美辞麗句を大盤振舞いしながらイラスベスの顔を塗り立てていく化粧師。奇妙にしなを作る癖のあるおかしな男だが、腕は確かというふれこみだった。確かか?とハンスは疑問に思う。あの白塗りの厚化粧が本当に女王にふさわしいのか。イラスベスの美しさを最大にひきたてるのかと、疑わしく思う。けれどそれを言葉にすることはできなかった。ハンスのように化粧師もまた女王が選んで使っている人材であり、その仕事にけちをつけることは首と胴体が離れることを意味する。それにハンスは口下手な質だ。仕事中にもほとんど口をきかない。もしかしたらただ黙々と仕事をする自分よりも、沢山の褒め言葉で女王の気分をひきたてようとする化粧師の方が、女王に仕える者として正しいのかもしれないという引け目もあった。どのみち、臣下の諫言を受け入れるようなイラスベスではないのだけれど。
(もしも女王になにか言える人間がいるとしたら)
ハンスは考える。それは二人しか考えつかない。一人は今はもうこの宮殿にいない彼女の妹。もうひとりはーーー
* * *
(いや、やはり彼には無理なのだろうな)
夜、ハンスの仕事部屋に女王を送り届け、心からの忠臣のような顔で去っていくハートのジャックを見ながら、ハンスは一人ごちる。
(ステインは女王を恐れている。女王の彼への愛は本物なのに)
名残惜しげに去っていくステインの背を見送る赤の女王。他の誰が彼女にこんな表情をさせられるというのか?
少なくともハンスには無理だ。女王はハンスのことなど気にもとめていない。明日この髪結部屋で彼女を迎えるのがハンスでなかったとしても、気づかないかもしれない。そう思うと、ハンスの胸にちりりと焦げるような熱が生まれる。
(己の異形をコンプレックスに思っている女王でも、やはり想うなら一般的な美男がよいのだな)
ステインのように美しく、どこか危険な雰囲気を秘めた男と自分とでは、女性からの評価は比べ物にならないであろうことくらい自覚していた。ハンスは凡庸な顔立ちをしている。また恵まれすぎたその体格は、この宮殿以外の場所では異形の一種として扱われたかもしれない。ありすぎる上背、太すぎる腕、大きすぎる手。どれも普通の髪結師には必要のないものだ。だがこの宮殿では違った。この宮殿にはイラスベスがいる。巨大な頭を持つ女王の歓心をかうために、ここでは皆つけ鼻やらつけ耳やら、なにかしら変装をしてまで異形を演じている。その中にあってはハンスの少しばかりの異様さなど全くマイナスになりえない。ましてやこの大きな頭を持つ女は、髪を結う腕は並だが力こぶがとりえなどというおかしな髪結師を最大に買ってくれたのだ。
『大頭のイラスベス』ーー彼の女王。恐ろしい女であることくらいは知っている。何がどうなろうと、自分の手におさまる女ではないことも百も承知だ。だが、それでもハンスは。
「今日は疲れたわ。マッサージをお願い。特に首を念入りにね」
女王が命令する。それをうやうやしく受け取って、ハンスは彼女のまとめ髪をとき、その大きな頭を支えくたびれた白い首に触れる。 『首を刎ねろ!』 日々そう叫んではたいした罪もない命を散らしていく恐ろしい喉を、やんわりと撫でさすった。