月の こども。
愛してる。
呟く声は頑是なく繰り返されつづける。本当は、繰り返し続けるほか道はないのかもしれない。
門田は、とうに読み終えてしまっている文庫のページをめくることに倦んで、細く息を吐き出した。吐き出し終える頃にはすでに些かの覚悟といえば覚悟らしきものは決まっていて、ゆっくりと顔を上げる。本と本棚の向こうは酷く薄暗く、門田が目を凝らしてもすでに目的のものはそこには、もう存在していなかった。
だがそれでもなお、愛してると、呟く声は繰り返されつづける。あいしてる、あいして、る。
そこに含まれるあざやかで無垢な浚いつくせない無数のシニフィエを、いったい誰が咎め、そして誰が受け入れるというのだろう? 誰にも触れられないからこそ無垢であざやかなままそれは生き残ったのだ。孤独で、孤立した、幻想のような世界のなかのたったひとつの永遠となって。
結局のところ門田は最後までやめろと言うことができなかった。
本に囲まれた薄暗い影の下でその青白い頬をしあわせそうにゆるめる彼を、あれは月のようだ、と思いながら静かに立ち上がって踵をかえした。からからと引き戸を開けたとき、ほんの僅か嗚咽が聞こえたような気がしたが、きっと気のせいだろう。廊下の窓から見える空はまだぼんやりと白く、よくみると薄く透けた月が高層ビルの天辺に引っかかっていた。
夜になればこの街もきっとうつくしい青白さで覆われることだろう。腐敗はゆるやかに隠され、圧迫され、塗り潰される。何もかもを青白く染め上げて月は世界を見下ろすだろう。この世界はうつくしい。そう思いながら。
月はけして眠らない。見つめ続け、導き続け、隠し続け、そしてすべてを暴き続け、何ものをも舞台からおろさせはしない。退場を、ゆるしたりはしない。満ちては欠けながら、いっそ絶望的なほどうつくしい世界を保ち続ける。声も届かず、指先も届かない場所から、終わりを憎み、望み、何かを探し続け。
きっと最後まで、このために、この腐敗した世界のために生まれたのだと。
信じようとしつづけるのだろう。
(何処にもそんな居場所など、ないというのに)