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odi et amo.

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『それ』は、確かに痛みだった。
 鋭いものが皮膚を切り裂いて己の体内に侵入する感覚、しかし浅く入った切っ先はそこでぴたりと動きを止める。意識してのことではない、むしろ考える必要さえも排除した条件反射的な筋肉の収縮は己を害する鋭利な切っ先を拒絶し、それの侵入を僅か五ミリ程度に留めて見せた。
 途端、ちっと鋭く響く舌打ちの音。
 あからさまに不満を表した男の表情を見下ろす自分の顔は果たしてどんな表情を浮かべているかと漠然と思い、平和島静雄は何処かぼんやりとした思考を巡らせた。
 普段なら疾うに手足が出ている筈だが、咄嗟に身体が反応を示したのは己の腹に突きつけられたナイフの侵入を防ぐことに限られていて、目の前の忌々しい男を殴りつけたり蹴りつけると言った行動を取るには至らない。
 嗚呼酔っている所為だ屹度そうだ。確かに今日は少し飲み過ぎた、だから痛みは感じない。
 否、正確に言えば静雄は痛みを感じている。浅いとは言え鋭い金属の切っ先が己の肌に食い込んでいるのだ、――但しその切っ先五ミリだけが。多分、いや絶対と言っても良いだろうが、これが他の人間であったならナイフの切っ先が其処で止まったりはしない。皮膚を切り裂き脂肪を突き抜け筋肉を断ち切って、運が悪ければ内臓まで冷たい刃は一直線に突き進んだ筈だ。ナイフの切っ先を五ミリで止めたのは、喧嘩人形の異名を取る静雄だからこその芸当に過ぎない。そしてこんなことは初めてではないくせに、何故眼前の男は毎度毎度忌々しげに舌打ちなどして見せるのか、それが静雄には理解出来なかった。
 元々、他人を理解することなど放棄しているのだが、。
 ぼんやりと濁る頭の中で、奇妙な渦がぐるぐると螺旋を描いている。何でこうなった、どうしてこうなったと繰り返し自問してみるものの答えはなく、腹に食い込んだ冷たい金属は徐々に静雄の体温を吸い上げて同化しようとしている。温度を同じにしたからと言って、静雄の身体が硬い異物を受け入れる訳ではないのだが――嗚呼やっぱり酔ってる。
 声には出さずに呟いて、静雄は見慣れた男の顔をサングラス越しに睨めつけた。
 何でこの男が此処にいるのか、それはこの際どうでもいい。新宿に引っ越した筈なのにと幾度繰り返してみたところで彼が自分の目の前に立っている現実が変わる訳がなく、況してやその手に握られた殺意の篭ったナイフが消える訳でもない。
 じわり、と腹部に奇妙な熱が広がるのは、僅かに溢れた血のぬくもりか、それとも、。
「何で平然としてるかなぁ、シズちゃんは」
 はあ、と大きな溜め息と共に吐き出された言葉に、静雄の眉間に皺が寄る。びしりと音を立ててこめかみの辺りに血管が浮かんだのが漠然とわかったが、だからどう、と言うこともない。基よりキレ易い性格であることを静雄は自覚している。誤解されがちなことだが、静雄には忍耐と言うものがない訳ではない。ただ、その忍耐の耐えられる範囲が他者の常識の範疇に比べると恐ろしく狭いだけの話である。要は堪忍袋の緒が極端に短い、ただそれだけの話なのだ。単に我慢すると言う行為を放棄しているだけとも言うが。
 だからこそ、――酔いの力も手伝っていることは確かだ――今、静雄は即座に眼前の男を蹴り上げて投げ飛ばすようなことはしない。尤も、雑居ビルと雑居ビルの透き間に残された、裏道とも呼べないような透き間で起こった対峙は余りにも唐突で窮屈で、例えば静雄の手の届く範囲には武器になりそうなもの――道路標識や看板の類のことだ――は一つもない。別に素手で殴るなり頭突きをかますなりしても良いのだけれど、と声には出さずに一人ごち、静雄はやれやれと溜め息をついた。
「いーざーやァ。その呼び方はやめろって言ったよなァ」
「それに従うかどうかは俺が選択することであって、強要される覚えは全くないけどね。俺にとってシズちゃんはシズちゃんだし、他の呼び方に変えるなんて今更でしょ」
「てめぇな、」
 嗚呼、頭が重い。やっぱり少し飲み過ぎた、思考がぐらぐらとして定まらず、手足が酷く重く感じる。まさかこの男に会うと知っていたなら深酒はしなかったのに、と毒づいて、静雄はサングラス越しに折原臨也の顔を見下ろした。
 腹立たしいことこの上ない、見慣れた顔。
 唇の端に薄笑みを浮かべているのに眼差しに笑みの色はなく、頬が笑うように震えている癖に楽しそうな気配は微塵もない。その両手が握り締めたナイフは静雄の腹に僅か五ミリだけ切っ先を食い込ませたまま、強靭な腹筋と言う壁に阻まれて動きをぴたりと止めている。
 無意識の反応。
 それがもし少しでも遅れていたら、と酩酊した頭蓋の中で呟いて、静雄はいやいやと首を振る。考えるだけ無駄だ、例えばそれは別の言語を操る者に日本語で古典を聞かせるようなものに違いない。――何故そんなたとえを思いついたのかは静雄自身にもわからなかったが、要は無駄のたとえにしたい、らしい。自分でも自分の思考が何処へ向かっているのかわからないまま、静雄は無造作に手を伸ばして臨也の前髪を掴み寄せようとした。
 ぐしゃり、と音を立てて指の透き間で髪が捩れ、潰れてひしゃげる。いっそ頭蓋骨に指を食い込ませて力を込めたらどうなるだろうかと考えなかった訳ではないが、そうしなかったのは単に服が汚れると思ったからに過ぎない。試したことはないが、静雄がその気になって力を込めれば己の指は骨をみしみしと軋ませて、まるで林檎を握り潰すかのようにひとの頭蓋を砕くのだろう。灰色の脳細胞、と言う言葉が脳裏を過ぎったのは何故なのか、嗚呼そうだこいつの脳味噌は一体どんな色をしているんだろうか、きっとこいつのことだから砕けた骨の透き間からは灰色の――本当にひとの脳が灰色をしているか否かは静雄にはわからない――ぐちゃぐちゃとしたものではなくて極彩色のゼリーみたいなものが溢れるかも知れない。それはそれで面白そうだが、如何せん握り潰せば服が汚れるし手も汚れる、否、そもそも返り血を派手に浴びたら帰るのも一苦労するに違いない。今更なにを常識ぶったことを、と頭の何処かで自嘲しながら、静雄は臨也の前髪を掴んだ指を強く引いた。
 ぶち、と音を立てて数本の前髪がちぎれ、臨也の顔がわずかに歪む。しかしその表情には焦りの色も無ければ恐怖の色は微塵もなく、ただ無表情と無感情に程近い冷徹な双眸だけが、観察するように静雄をじっと見上げている。
 その目が気に食わないのだと、果たして今に到るまで何度思ったことか。
 薄く笑う唇も引き攣ったように震える頬も挑発するような眼差しも何もかもが気に入らない気に食わない。それはもう随分と前、恐らくは初めて出合った時から――或いはその少し後から静雄に纏わりついて離れない感情。
 好き嫌いではない、ただもう只管に気に食わない。
 言い換えるなら、その存在が疎ましくて仕方が無い。
 にも拘らず、――何故俺はこの男を殺さずにいるのか。
作品名:odi et amo. 作家名:柘榴