ゆめうつつ
彼女が零した。
何をと問われても、うまく説明出来る自信がない。彼女らしい小さな、囁くような声だった事だけをかろうじて覚えているだけだ。思考は気だるげに巡るばかりで、解答のピースすら見つけ出せずに迷走している。
「…あの」
また、彼女が零した。こんな風に意味のないものだったのだろうか。僅かな疑問は押し流され、ぐいと引っ張られる感覚の後に、橙が現れる。彼女は何もしていないから、引っ張られるというのは恐らく錯覚だ。何の合図もなしに突き飛ばされているのに、恐怖を抱く余地を与えさせないような――奇妙と言ってしまえば終わる程の小さな違和感に、自我を埋め込み、考える。半端と言い切っても良い。スポンジの付いたナイフで斬られたとでも形容してみようか。そこには多少の痛みも伴ったかもしれないし、鈍い衝突音もあったかもしれない。強く押し付けたのなら血だって流れたかもしれないのだ。
しかし少年は、覚えていないのだから、諦めるほかないと悟る。結局はそれしかなかった。ただ刺激があっただけで、他は曖昧で、そんな訳だから、そういう風に処理されていく。我ながら何と穴だらけの理論だろうか、心中の己は自嘲した。一方でむき出しの方の少年は何の迷いもなく、そちらを捨てる。無視をする。再び溺れる前に片付けてしまわないと、今度こそ彼女の言った事は聞き取れないだろう。少年にとってはそちらの方が、警告音を響かせている脳よりも優先するべき事態なのだ。構っている暇はない。視界に意識を集中させ、かくして現実へ帰還する。
橙の空間は嘘ではなかった。現実だ。目の前にはひたすらこちらを見つめている少女、その向こうには綺麗に並んだ机と椅子のセットがいくつかと、開けっ放しの扉がある。廊下には見た所誰も居ないようだ。下校中の生徒の笑い声やら足音やらでざわついていたはずだったのだが、何だか遠い昔の記憶を引っ張り出しているような気がして、ほんのりと頭痛に襲われる。居ないはずのない教師も今は見当たらない。
つまりふたりきりだった。ふたりきり。普段ならばもっと動揺したり舞い上がったり、喜んだりするのかもしれないが、何故だろう、とてつもない居心地の悪さを感じてしまっている。中心にそびえたつ、強靭な一感情が、揺らぐ事を選ばなかったせいか。無性に悲しい思いで口にしたのはこんな言葉である。
「ごめん」
直後、帝人は途方に暮れていた。とても意味のないもののように思えてならない。
冷静になって考えると、彼女はここでどれくらい自分を見て、どれほどの言葉を投げ、どれだけを待ったのかと、たぶんそれに対する謝罪だったのだが、いずれにせよこの時点で杏里は全く動かなかったので、伝わったかどうかも定かではない。ただ、じいとこちらを見つめるばかりで、何もしない。瞬きもしないのではなかろうか。いたずらに浮かんだ言葉は急速な焦燥感を生み、心音が体外に飛び出そうと喚き始める。かさかさの唇を噛みしめた。自分だけがあちらから帰り、彼女がそこに残ったのでは? ああ、そんな擦れ違い、惜しまない方がおかしいだろう! 少年は未だどこかに囚われたまま、心の底から嘆くが、虚しい事に表情の変化にまで至らなかった。そんな彼を夕日が嘲笑う。盾を認識しながらもなお、少女に光線を注いで。園原さん、意を決して呼び掛けた一言も最後の音を紡がず消えた。一方の呼び掛けられた方はやはり何も気にかけないで、恐ろしい程に自分のペースを守りつつ、唐突に口を開いたのだった。ちなみに、焦燥だと気付くには少年は動揺に過ぎていた。
「みかど、くん」
握り締められる。てのひら。声を発する際に拳を作ろうとしていた右手が、杏里の柔らかな手を握っていた。言葉が途切れたのは紛れもなくこれが原因だ。だが、何故こんな事になったのか帝人は全く覚えていなかった。覚えもなかった。少年に残された道はもはや情けなく慌てふためく、しかない。
「ご、ごめん!」
二度目の謝罪ははっきりとしていた。意図だけは。もしも気が付かないうちに握っていたのであれば謝罪では済まないかもしれないが、だからと言って謝らない選択肢など存在しない。自己嫌悪と将来への不安に潰されそうになりながらも、ありったけの理性を掻き集めて現実に順応をしようとする。客観的に見て、その辺りだけは評価出来るのではなかろうか。自賛しないとやっていられない。脱線しそうになる思考を強引に戻す。さて具体的にはまず、繋がった手を解く事だ。けれど勢いよく引っ込みかけた手が上回る力で逆方向に引かれ、完全に油断していた、というより、想定していなかった事態に帝人の身体も前方に傾いてしまう。右足か、左足かが一歩前に出る。もうどちらかも忘れた。ほぼ無意識に視線を落とすと、彼女の赤い上履きと、自分の妙な立ち位置が遠くにあったのを、必死でぼうと眺めていた。
「違うんです」
遅れて聞こえた一言がますます行動を縛る。まさしく今が混乱と呼ぶにふさわしい。何が違うのか、どうして引っ張られたのか、何故まだ、手をつないだままなのか、全く訳が分からない。帝人はうつむいた姿勢を貫いた。顔が上げられなくなったのである。全く把握出来ないところに紛れた少年の、脳裏に浮かぶは恐怖一択。青みがかった瞳は見ていられない程の動揺を見せ、瞬きもせずに相変わらず床を凝視していた。かろうじて口内だけは唾液を流し込む仕事を忘れない。しかしそれも、喉仏が上下する、見せかけだけの行為に過ぎない。だって何も潤わないのだから。
杏里は首を振っているようだった。ぱさ、ぱさ、と、音がする。恐らく切り揃えられた黒髪が揺れる音だろう。
何をと問われても、うまく説明出来る自信がない。彼女らしい小さな、囁くような声だった事だけをかろうじて覚えているだけだ。思考は気だるげに巡るばかりで、解答のピースすら見つけ出せずに迷走している。
「…あの」
また、彼女が零した。こんな風に意味のないものだったのだろうか。僅かな疑問は押し流され、ぐいと引っ張られる感覚の後に、橙が現れる。彼女は何もしていないから、引っ張られるというのは恐らく錯覚だ。何の合図もなしに突き飛ばされているのに、恐怖を抱く余地を与えさせないような――奇妙と言ってしまえば終わる程の小さな違和感に、自我を埋め込み、考える。半端と言い切っても良い。スポンジの付いたナイフで斬られたとでも形容してみようか。そこには多少の痛みも伴ったかもしれないし、鈍い衝突音もあったかもしれない。強く押し付けたのなら血だって流れたかもしれないのだ。
しかし少年は、覚えていないのだから、諦めるほかないと悟る。結局はそれしかなかった。ただ刺激があっただけで、他は曖昧で、そんな訳だから、そういう風に処理されていく。我ながら何と穴だらけの理論だろうか、心中の己は自嘲した。一方でむき出しの方の少年は何の迷いもなく、そちらを捨てる。無視をする。再び溺れる前に片付けてしまわないと、今度こそ彼女の言った事は聞き取れないだろう。少年にとってはそちらの方が、警告音を響かせている脳よりも優先するべき事態なのだ。構っている暇はない。視界に意識を集中させ、かくして現実へ帰還する。
橙の空間は嘘ではなかった。現実だ。目の前にはひたすらこちらを見つめている少女、その向こうには綺麗に並んだ机と椅子のセットがいくつかと、開けっ放しの扉がある。廊下には見た所誰も居ないようだ。下校中の生徒の笑い声やら足音やらでざわついていたはずだったのだが、何だか遠い昔の記憶を引っ張り出しているような気がして、ほんのりと頭痛に襲われる。居ないはずのない教師も今は見当たらない。
つまりふたりきりだった。ふたりきり。普段ならばもっと動揺したり舞い上がったり、喜んだりするのかもしれないが、何故だろう、とてつもない居心地の悪さを感じてしまっている。中心にそびえたつ、強靭な一感情が、揺らぐ事を選ばなかったせいか。無性に悲しい思いで口にしたのはこんな言葉である。
「ごめん」
直後、帝人は途方に暮れていた。とても意味のないもののように思えてならない。
冷静になって考えると、彼女はここでどれくらい自分を見て、どれほどの言葉を投げ、どれだけを待ったのかと、たぶんそれに対する謝罪だったのだが、いずれにせよこの時点で杏里は全く動かなかったので、伝わったかどうかも定かではない。ただ、じいとこちらを見つめるばかりで、何もしない。瞬きもしないのではなかろうか。いたずらに浮かんだ言葉は急速な焦燥感を生み、心音が体外に飛び出そうと喚き始める。かさかさの唇を噛みしめた。自分だけがあちらから帰り、彼女がそこに残ったのでは? ああ、そんな擦れ違い、惜しまない方がおかしいだろう! 少年は未だどこかに囚われたまま、心の底から嘆くが、虚しい事に表情の変化にまで至らなかった。そんな彼を夕日が嘲笑う。盾を認識しながらもなお、少女に光線を注いで。園原さん、意を決して呼び掛けた一言も最後の音を紡がず消えた。一方の呼び掛けられた方はやはり何も気にかけないで、恐ろしい程に自分のペースを守りつつ、唐突に口を開いたのだった。ちなみに、焦燥だと気付くには少年は動揺に過ぎていた。
「みかど、くん」
握り締められる。てのひら。声を発する際に拳を作ろうとしていた右手が、杏里の柔らかな手を握っていた。言葉が途切れたのは紛れもなくこれが原因だ。だが、何故こんな事になったのか帝人は全く覚えていなかった。覚えもなかった。少年に残された道はもはや情けなく慌てふためく、しかない。
「ご、ごめん!」
二度目の謝罪ははっきりとしていた。意図だけは。もしも気が付かないうちに握っていたのであれば謝罪では済まないかもしれないが、だからと言って謝らない選択肢など存在しない。自己嫌悪と将来への不安に潰されそうになりながらも、ありったけの理性を掻き集めて現実に順応をしようとする。客観的に見て、その辺りだけは評価出来るのではなかろうか。自賛しないとやっていられない。脱線しそうになる思考を強引に戻す。さて具体的にはまず、繋がった手を解く事だ。けれど勢いよく引っ込みかけた手が上回る力で逆方向に引かれ、完全に油断していた、というより、想定していなかった事態に帝人の身体も前方に傾いてしまう。右足か、左足かが一歩前に出る。もうどちらかも忘れた。ほぼ無意識に視線を落とすと、彼女の赤い上履きと、自分の妙な立ち位置が遠くにあったのを、必死でぼうと眺めていた。
「違うんです」
遅れて聞こえた一言がますます行動を縛る。まさしく今が混乱と呼ぶにふさわしい。何が違うのか、どうして引っ張られたのか、何故まだ、手をつないだままなのか、全く訳が分からない。帝人はうつむいた姿勢を貫いた。顔が上げられなくなったのである。全く把握出来ないところに紛れた少年の、脳裏に浮かぶは恐怖一択。青みがかった瞳は見ていられない程の動揺を見せ、瞬きもせずに相変わらず床を凝視していた。かろうじて口内だけは唾液を流し込む仕事を忘れない。しかしそれも、喉仏が上下する、見せかけだけの行為に過ぎない。だって何も潤わないのだから。
杏里は首を振っているようだった。ぱさ、ぱさ、と、音がする。恐らく切り揃えられた黒髪が揺れる音だろう。