ゆめうつつ
(……?)
(え?)
疑問が恐怖を和らげていく。
この女性は、本当に、園原杏里なのか――?
不謹慎だとも思ったが、帝人は本気だった。先程の声色をリピートする。下手をすれば自分よりも平静を失った、女性らしい声。感情を乗せ過ぎて重くなった、縋るような色を滲ませた、自分の名前を呼ぶ声。だがこれらの言動が、少なくとも帝人の知っている園原杏里とはどうしても結びつかない。彼女はいつだって遠くにいた。時に頬を赤く染める事もありはしたが、彼女の持つ女性らしさというのは、自分の居る世界にはないもののような気がしていた。それくらい浮世離れしたイメージを持っていたのだ。
「……園原さん…?」
「……見ないで、ください」
すみません、と付け足された。代わりにさっきよりも強く手を握られる。感触からするに、両手で。
「私が掴んだんです。私が、帝人君を掴んだから、帝人君が謝る事じゃないんです」
「…ごめんなさい」
「ごめんなさい。怖くなって」
「帝人君も、どこかに行ってしまいそうで」
囁くような声が、ああ、今度はきちんと聞こえている。少年の目から焦りも恐怖も消えて、ゆっくりと細められ、やがて瞼に覆われた。これが虚構だと言うのなら、心臓の痛みはどこから来ているのだ。うそのような世界に牙をむく。何もかも橙に塗り潰されたちっぽけな空間と、その先の半円。背後から嘲笑を響かせているであろう夕日を、視線はくれずに睨みつける。実際に睨んでいるのは瞼の裏側だったが、正面からだろうがどこからだろうがきっと届くと確信していた。八つ当たりである事もエゴである事も分かっている。分かっているからこんなにも沈着に罵れる。ひとしきり罵倒をしたのち、再び目を開けて、少年は決意した。
「行かないよ」
ただ、これが薄っぺらな言葉になってしまっても、良いと思う。
ひどいかすれ具合だった。聞こえたかどうかも分からないくらいの、情けなさをいっぱいに含んだ、出来れば誰にも聞かれたくないものだった。けれど帝人はもう一度、同じ言葉を繰り返す。それから一旦唇を閉じて、帰ってくるよと、今は居ない人物の事を指して、言った。途方もない勇気が要った。めまいすら覚えた。彼女にとっての喪失感は計り知れないが、少なくとも自分よりは軽いものだったろうと、そんな風に決め付けていた己への罰だ。だからここで抱き締める事もしないし、引き寄せる事も、顔を上げる事も、しない。杏里がまずそれを望んでいない事は纏う空気からして明らかだった。手を握るだけで良いのだ。そして自分も、今はそれで良かった。恐る恐る握り返すと、小さく息を呑む気配がして、やさしい女が拒まない。それどころか一呼吸おいて彼女はやっと微笑んだ。泣きたくなった。唇を噛んで我慢した。
「やわらかいですね」
後になってふと、彼女の手が容姿にしてはあまり女らしくない事に気付いたが、それは別の話だ。心がまた何か言ったのを、次はゆったりと聴こうか。思えばぼくは、謝ってばかりだった。
ゆめうつつ
(20100604)