灰とバロック
――a few years ago――
「大佐って年とらないっすよねー」
少しの休憩の合間、垂れ目にくわえ煙草がトレードマークの少尉がそう言った。言われた当人は一度瞬きした後、食えない笑みを浮かべて部下を見て言ったものだ。
「なんだ。おだてても何もでないぞ」
「や、別におだててるわけじゃないんすけどね…」
どっちかつうとちょっと怖いっつうか、と言葉を濁す男の観察眼を、上司は買っていた。大佐、はふふんと目を細めて、後は煙に巻くような一言を発するのみだ。
「年を取らないのはいい女だけじゃないってことだな。さて、そろそろあちらも動きがある頃じゃないか?」
ちょうど張り込みの途中でのこと。台詞の前半に嫌そうな顔をしたハボックも、後半を聞けば表情を切り替えて包囲中のテロリストどもに意識を向ける。
その背中に気取られぬよう上司は溜息をついて、かぶりをひとつ振る。そうして上げた顔からはもはや何も読み取れず、彼は堂々たるさまで手をかざし、控えた部下達に命令を発すべく口を開いた。
「――総員、配置につけ!」
拡声器を通さずともよく通る声が響いて、兵士達は銃を構えた。
がたたん、という列車の心地よい音を聞きながら、夢うつつの状態でエドワードはぼんやり頬杖をついていた。頬杖をついてばかりいると転びやすくなるよ、といさめる弟は今はいない。先ほど老婆の荷物を持ってやりながら彼女の座席まで行ってしまったから、もうしばらくは帰ってこないだろう。
「……」
手がかりは相変らずない。
しかし、今何となく気が抜けてしまっているのはそのせいというわけでもなかった。
ちょうどこんな時期だっただろうか、といつも思い出すのは、冬から春に向かう、花がほんの少しほころんできたかどうかという季節だった。水がわずかにぬるみ、時折、風の向きが変わる。そんな時期だったと記憶している。…ごく幼い頃のエドワードが、その不思議な人物に会ったのは。
「……」
探検のつもりが普段知っている場所を離れてしまって、森の奥、いや、むしろ森を出ようというような境界の場所で、その男と会った。男は怪我をしているようだった。見た目は若い、どこにでもいそうな男だったと思うのだが、顔などはあまり覚えていない。夜だったせいかもしれない。けして幼かったからだとは認めたくない、微妙なプライドがエドワードにはあった。世間の常識に照らし合わせたら確かにその時の彼は四歳と幼かったかもしれないが、もう立派に物心ついた錬金術師だったのだから。
男は手の甲に何か紋様のものを刻まれていた。今にして思えば、それは錬成陣のようなものだったのかもしれない。最初はそれも傷かと思った。赤かったから。けれども傷ではないと教えられた。
――君も迷子か。
迷子は子ども扱いに属する単語だが、君も、という呼びかけをきちんと幼いエドワードは理解していた。だから、あんたも迷子か、と返した。そうしたら男は楽しそうにくすくすと笑って、そんなようなものだな、と答えた。森の中、月もない夜のこと、男の顔も怪我をしている場所もよく見えなかったが、微かに鉄のにおいがしていて、怪我をしているのだろうと思った。
――野犬を呼んでしまったかな。君は離れないほうがいい。
言われて瞬きした時に、確かに遠吠えが聞こえた。森にいる野犬は危険だと大人達に口をすっぱくして言われていたから、エドワードは眉をひそめた。本当は少し怖かったのだが、怖がるのは男らしくないので。すると男はやはりまた笑って、君は怖くないのか、と尋ねてきた。当たり前だ、オレはにいちゃんなんだからそんな犬なんか怖くない、と返せば、男はしばらく笑って何も言わなかった。
――君は口はかたいかな?
問われた時には、確かに近い場所に何かの気配を感じた。男の声のトーンが下がったように思えたのは、彼の方が先にそれに気付いていたからだろう。それでも、焦った様子はついぞなかったが。
…悔しいが、エドワードが子供過ぎて気付かなかったのかもしれないけれど。
――オレは錬金術師だぞ、約束くらい、守れるんだからな!
勢いよく啖呵を切れば、男が少しだけ驚いたような声を上げて。
それから心底楽しそうに笑って、そうか、それはいい、と答えた。
…そこから後は一瞬だった。それこそ、魔法でも見ているような感覚だった。
木陰から踊りだしてきた野犬の群れにエドワードが息を飲んだ瞬間。男の手が軽く振られて、それ以外は特に何もなかったはずなのに、闇夜に一瞬焔が浮かんだのだ。そうして響いたのは野犬の悲鳴だ。焔の壁が一瞬空中に走り、それが野犬達を薙ぎ払ったようだった。悲壮な鳴き声を上げて去っていくのが見えたから、全部殺したわけでもなかったのだろうが、それでもエドワードは目を皿のように見開いて、息さえ止めて見入っていた。
――息をして。
とん、と背中を少し強めに叩かれて、けほ、と咳き込んで。そうして、幼い日のエドワードは男を見上げたはずなのだが、その目が黒かったことくらいしか覚えていないのだ。
…後の事はよくわからない。
気がついたら朝で、母親に抱かれていた。母親は誰かにしきりと頭を下げていた。それにかまわないでくれと頭を下げたのは、声からして夜に会った男なのだろうとは思ったが、眠くて目が開けられなかったので顔はやはり覚えていない。ただ、かろうじて、去っていく男の背中が青い服だったことだけは印象に残っているのだが…。
それから時は経ち、あの男のことは何もわからないが、いくらか推理できることはある。恐らくは彼は、イシュヴァールの戦役に参加していた兵士の一人であろうこと。そして、多分、錬金術の心得があったに違いないということ。もしかしたら国家錬金術師だったのかもしれない。
――後見人が焔の錬金術師であることがわかったとき、まさかな、と一瞬思ったりもしたのだが、じっと見つめていたら「見惚れたかね?」と嫌みったらしく聞き返されたので、それからは腹が立って除外している。少なくともあの夜森で会った男はもっと、エドワードをしっかりと扱ってくれる人物だったように思うので。
会いたいというのでもない。それほどの思い入れはない。
けれど、いつもこの時期になると思い出す。
「…変なの…」
――それってまるで恋みたいじゃないの、と弟あたりに相談したら笑われたかもしれないが、エドワードが弟にそれを相談することはなかったので、そんなことにはならないのだった。
予告なく立ち寄ったイーストシティでは、ちょうど捕り物があった後だった。そのせいかいつでも慌しい司令部はさらに慌しい様子で、気をつけていないと廊下ですれ違う誰かとぶつかりそうになる有様だった。アルフォンスなどは、ボクは宿に行ってた方がいいかな、と苦笑して別行動を取ったくらいだ。どの道、軍の機密には彼は関わることが出来ない。建前上は。
「…オレ、タイミング悪かったか」
さすがにばつがわるくて問えば、珍しく上着を脱いでワイシャツの袖をまくった男が小さく笑った。まだ春なお浅い時期ともなれば、そんな格好では寒いと思うのだが、何か事情があるか単純に暑いのか。
もっとも、机の上に積み上げられた書類の山を見れば、事情などひとつしか思いつかないのだが。