灰とバロック
「君の来訪の前触れだったのかもしれないと思うよ。捕り物自体がな」
「なんだそれ」
「君はトラブルメーカーだから」
くつくつと喉奥で笑って、男は、ロイ・マスタングは書類の山を無造作に脇に避けた。そんなぞんざいなことをして副官に怒られないのだろうかと一瞬エドワードは心配になったが、こんな男の心配をすることもない、と頭を切り替える。
「まあ、かけたまえ。お茶の一杯も出そう」
「や、べつに。茶ぁ飲みに来たわけじゃねえし…」
「――拙速を尊ぶ、か。まあ悪くはないが、時に回り道も人生には有効だと思うよ。…聞こう。今日は何か?」
肩を竦めて、ロイはエドワードの来訪の理由を問うた。
「大佐、?始原の灰?って聞いたことあるか?」
エドワードは茶は断ったもののソファには腰を下ろして、そして尋ねた。
それはいつもの通り、「探し物」にかかわる話題だった。こうやって話を切り出すのは初めてではなく、応じるロイにしても、常であればひとつ、ふたつ頷いてからそれに関する答えを返すものだった。しかし今回に限り、彼は軽く目を瞠って、「…なに?」と低く聞き返してきた。知っていて、なおかつ少年の口からその名が出たことに対して驚き、あるいは警戒を抱いているのがわかる声だった。
そうやって感情を波立たせることは、少なくともエドワードが知る限りでは彼にとって珍しいことだった。だから、エドワードは素直に目を見開いて首を捻った。
「知ってるんだ?」
「…知っている、というか。…鋼の、どこでその名を?」
「どこったって…文献で」
他に何が、と肩を竦めれば、確かに、と苦笑して男は頷き、背もたれに体を沈めた。
「すべての始まりの灰は命を増やす。…ただのファンタジーだと思ったんだけど」
エドワードは遠くを見るような目つきをして文献の一説をそらんじる。ロイは黙ってそれを見ていた。エドワードの、どこか茫洋とした声は続く。
「死んだ男が始原の灰によって蘇った。彼は永遠に朽ちることのない体を得て、今もこの世をさまよっている――」
「…どう考えてもただのおとぎ話じゃないか」
ロイが口を挟めば、そうなんだけどさ、とエドワードが夢から覚めたような顔で見返して答える。それでも、だ、と。
「いちいち怪しいからさ。他にめぼしいネタも今はないし、ちょっと調べてみようって思ったんだよ。確かにオレだって不老不死なんて信じちゃいない。でも、疑うことと信じないことは必ずしも同義じゃない」
既にして老いた学者のような口ぶりで言ってから、するりと少年らしい顔つきに戻り、エドワードは猫なで声を出す。
「でもさあ、調べるつったってネタがなにせないわけ。そんで、大佐殿んとこに様子見にきたっつうか」
な?と首を傾げる顔は随分と無理をしてかわいこぶっていて、ロイは顔を背けて噴出した。正面を向いていないだけマナーを守ったとロイは思っている。勿論エドワードはそうは思わなかったが。
「…っだ、その態度。笑うなよな、人の精一杯の努力を」
「それで愛想を振りまいているつもりかね?唇が曲がりすぎだ」
くく、と口を手で抑えながら言うロイの声に悪意はない。何のかんの言ったところで、ロイがエドワードに手を貸さなかったことなどないのだ。その理由はよくわからず、ただの気まぐれの可能性も捨て切れなかったが、それでもいいとエドワードは思っている。使えるものはすべて使うと決めたせいもあるし、…多分根底ではロイを信頼していたから。
「…さてね、随分と懐かしい名前だ」
笑いを収めて、ロイは静かに話題を戻す。細めた目は随分と遠くを見ているようだった。
「懐かしい?」
「ああ。…昔、一度だけ、そうだ、といわれるものを見たことがあるんだ」
「…マジで?!」
ああ、とロイは頷いた。それから少しだけ首を傾げて続ける。
「…あれは賢者の石とはあまり関わりない気がするが」
「灰だから?」
尋ねれば、ロイは瞬きした後苦笑して首を振った。
「賢者の石は錬金術全般に対する増幅器としての機能を持っていると伝えられている。しかし、?始原の灰?はそうではない。あれにあるのは、人を不老不死の化け物に変えるという伝承だけだ」
化け物、という単語にエドワードは眉をひそめた。不老不死は古来より多くの人が夢見てきたものだ。エドワード自身は興味がないが、不老不死といって化け物と直結するのは、連想としてはあまり多数派ではないように思える。
「随分詳しいじゃん、大佐」
思ったままを告げれば、相手は困ったような、呆れたような顔をして首を振った。
「忘れていたよ。前に一度聞いたくらいだから。…そして残念ながら、私にはそれに関する手札はない」
「じゃあ、そのさ、前に一度見た、っていうのを教えてくんねえ?どこで見たんだ?」
この質問に、ロイは答えようとして口を開き、しかし何かに思いとどまったような様子でもう一度閉じた。わけがわからないのはエドワードである。ロイにはこんな態度、珍しいものにしか思えなかったからだ。
「…忘れた」
「…はぁ?そんなに覚えてるのに?」
「忘れたものは忘れたんだ。内戦に行く前のことだったのは覚えているが」
「…、あ、そ…」
それを出されてはそれ以上問うのも躊躇われた。といって謝るのも変なようで、エドワードはとりあえずそれ以上の追及を諦めることにしたのだった。実際、それ以外どうしようもなかった。
…それきり、?始原の灰? の話は、元々エドワード自身もそこまで本気になっていなかったのもあり、立ち消えになった形になった。そのまま消えてしまうこともあったに違いない。もしも、その事件さえ起こらなかったなら。
――その事件は、雨の晩に起こった。
確かに暦の上では既に春であったが、朝夕はまだ随分と冷えこむ。まして雨の夜ともなれば言わずもがな、である。
野良犬が時折悲しげな遠吠えを聞かせる他には飴の陰気な旋律だけが世界を満たしていた、その事件が起こったのは、そんな夜のことだった。
「まあまあ、おかけください」
ガウンの紐を結わきながら、男は一見愛想のいい顔を浮かべて、突然の来訪者に椅子を勧めた。時刻は既に深夜である。時間帯だけを言うなら随分と非常識な客ではあったが、男は少なくとも見た目だけで判断するなら怒っているわけではないように見えた。
それはそうだ。高額の取引を前に機嫌のよくならない人間はあまりいないだろう。
「こちらが、先日お話した…」
男は布張りの宝石箱を開け、客に示した。客は少し目を瞠ったようだった。暗いせいではっきりとはわからなかったが。
「どうぞ、お手にとってごらんください」
ふ、と目を細める主は、こう言ってはなんだがどこか狡猾そうな色を瞳に帯びていて、あまり上品とは言い難かった。
しかし、男が示した宝石箱の中の物はそれとは対照的に慎ましやかな光沢を放っていた。
「――これが、?始原の灰?です」