8月
カロルは通された質素な部屋をもの珍しそうに、見回した。
眼を刺激するような色がまったくなく、だけどそんな何もないような部屋の中にあるグランドピアノだけがやけに存在を主張しているように見えた。
とたとた、とカロルの傍を通り過ぎた犬はラピードといい、そして探していたジュディスの知り合いであるという人はユーリと名乗った。
ユーリはカロルに適当にしててくれていい、とそっけなく言ってから、冷蔵庫の中をあさり始めた。
なにが始まるのかと少し様子を伺うかのように見ていたカロルは、ユーリにお構いなく、と小さく声を出した。ユーリは返事をしながらも、とりあえずどっちがいい、と差し出されたジュースにカロルは眼を瞬いた。
「ええと、リンゴジュース、で」
「右か左か」
「あ、えと、左」
「ん」
そうしてグラスに注がれたそれを受け取って、カロルはぐぴっと音を立てて飲んだ。てきぱきと物を片付けていくユーリを見ながら、カロルは見たときからずっと思っていたことを訊ねた。
「ユーリさんって、目見えない、んだよね?」
「ユーリでいいぞ。ま、そうだな。見えねぇよ」
「……そっか」
それにしてはよく動くし、まるで見えてるかのように振舞うなぁ、とユーリの背中を見つめながらジュースを飲んだ。
喉を通るリンゴの酸味と甘味にカロルは自分が腹が減っていることに気づいて、ああ、とお腹を手で擦った。昼ごはんもちゃんと食べれなかったり、道が分からなくなったりで、ようやくすこしほっとしたせいだろうか、とカロルは小さく息を吐いた。
すると視界が急に暗くなったので顔を上げると、ユーリが近くまできていて、バナナを差し出してきた。
カロルはそれをおずおずと受け取り、皮むいてむぐ、と食べた。ユーリは食べはじめたカロルにやわらかい笑みをみせて、同じように食べはじめた。それをカロルは見つめながら、ユーリの瞳へと視線を移した。
暗い、暗い黒。見覚えのある深い深い色。
だけど光の具合で紫にも見えて、カロルは思わず感嘆の声をもらした。
「どうした?」
「え、あ、いや。ユーリの瞳の色って、黒だよね?」
「そうだったっけか」
「うん。深い深い、海の底の色、だよ」
時計の秒針が音も刻まない静かな部屋の中で、そのカロルの声はしっとりと部屋に響いた。
ユーリは目を何度か瞬いて、海の底、と呟く。
「そんなことはじめて言われた」
「え、そう? 割と言われそうな気がするけど」
「そうか? カロルが変人なんだろ」
「ええっ? そんなリタじゃあるまいし!」
「リタって誰」
「へ? あー、うー」
カロルが言いづらそうに唸っていると、それまで大人しく伏せていたラピードが突然顔を上げて、玄関先へと歩いていく。それを見ていたカロルが、どうしたんだろう、と言うとユーリは口元をゆるめた。
「ジュディが来たんだろ」
「え、そうなの?」
そうして歩き出したユーリの背中を追ってカロルは玄関先まで行って扉を開けると、ちょうどエレベーターから降りてこちらへ走ってくるジュディスの姿が見えて、カロルは手を振った。
「ジュディス!」
「カロル、良かった。みんな心配してたわよ?」
「うん、ごめん。ジュディス、この前来たときにこのカード忘れていったから、渡した方がいいかなって思って」
「あら。ごめんなさい、ありがとう、ね」
ジュディスはカロルの頭をやさしく撫でてから、玄関先の壁に頭だけをもたれさせてこちらを見ていたユーリを仰ぎ見た。
隣に座っているラピードにも目を合わせてから、ユーリもありがとう、と言った。
「別にたいしたことじゃねーから、気にすんな」
「ええ、でも助かったわ」
「大事にならなくて何より、だろ」
口元を吊り上げて笑ったユーリと一緒にラピードの尻尾もふらり、と振られる。ラピードが何かしら反応を見せたことにカロルは嬉しくて、ラピードに近寄って頭を撫でようとするけれど、ふいっとかわされて不満の声をあげた。
それが可笑しくてジュディスが笑っていると、ラピードはぴくぴくを耳を振るわせてエレベーター方向を見たので、どうかしたのかと思い振り返った。
カロルもそれに気づいて覗き見て、表情が笑顔に変わった。
「レイヴン!」
「おーよぅ、少年。無茶しないでよー、おっさんが使われるんだからさぁ」
「うん、ごめんね」
「おおっ? なんだかしおらしいじゃないのよ、反省してるのか?」
楽しそうに笑いあうレイヴンとカロルの声にジュディスは、ユーリを振り返った。
もたれていた壁から頭をあげて、その黒い瞳が少しだけ狼狽するかのように揺れていた。
見たことのある動揺の仕方で、ジュディスはレイヴンへと視線を移した。
「おじさま、どうかしたの?」
「ん、いやぁ、特にはね。カロル少年が心配で心配で」
「うわ、ちょっとレイヴンなにするんだよっ」
カロルの髪を撫で回して、脇腹を擽りはじめてカロルが楽しそうに声をあげた。
普段子どもにはこういうスキンシップをする人だとジュディスは知っているけれど、カロルだけじゃないだろう、と思いその様子を眺める。何故かユーリの方を振り返ることが出来なかったけれど、今まで黙っていたユーリの声が耳に届いて、それに引き寄せられるかのように顔を向けた。
真っ直ぐな瞳がそこにあった。
「おっさんも知り合いなのかよ」
「そうなのよ青年。元気そうでなにより」
「妙な縁だな。寒気がする」
「確かに野郎と縁があると寒気もするでしょうよ」
「なるほど、じゃあお互い様ってことで」
呆れたように肩をすくめたユーリにレイヴンは苦笑した。
カロルがレイヴンの腕の中で、なんのことか分からずに二人の間を行ったりきたりしていたけれど、ジュディスはただ静かに理解する自分の思考に苦く笑った。
レイヴンと眼が合って、僅かに微笑まれた気がした。
「んじゃ、帰りますかー」
「そう、ね。ありがとう、ユーリ。またね」
「ああ」
「ユーリ、また会いに来ていい?」
「会っても面白いことなんてねーぞ」
「ええー、それでも来るから!」
レイヴンの腕の中でじたじたと暴れながらカロルが言うのに、ユーリは見えているわけでもなかったけれど、分かったよ、とやらわかく返事を返した。
途端にぱぁっと明るくなるカロルの表情に笑ったのはジュディスとレイヴンだった。
バナナありがとう、と元気に帰ってくる返事にユーリは手をひらひらと適当に振る。
それに手を振るカロルにレイヴンは見えてないよと教えようと思って、やめた。
本人がそうしたいのならそうさせるべきだろう、と左脇に抱えたカロルが揺れる。落ちるぞ少年、と言うけれどそれも聞こえてないようで、おやすみ、という叫び声に近い音量でカロルがユーリに向かって言ったのに、レイヴンも便乗した。
それでもその言葉は、エレベーターに乗り込んで、まだ開けられた玄関先の姿を目に入れてから。
だから、おやすみ、とレイヴンが唇だけを動かしたことを、ユーリは知らない。