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白鳥という厄災

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「ぐっちー」
 東城大学医学部付属病院の特別愁訴外来、その担当医である田口公平が駅前にある老舗のデパートに飛び込んだのは、八時前――閉店時間ぎりぎり、だった。
 駆け足で目当ての三階まで上がり、ほっと一息つく。
 そこは背広やYシャツが整然と並べられた紳士衣料売り場だった。
「ぐっちー!」
 左腕にはめたハミルトンの時計を見、閉店のアナウンスが流れるのは何時なのだろう、と思いながら田口は早足で歩き出す。きょろきょろと周囲を見回し、カラーのYシャツが並べられた一角に足を向けた。
「ちょっと、ぐっちー」
「!」
 真後ろから突然声を掛けられた途端、Yシャツの襟ぐりを掴まれて、田口はのどの奥で「ぐぇ」とも「ぎゃ」ともつかない声をあげた。
「ちょ、何するんですか!」
 慌てて腕を振り払って振り返れば、そこには背広が似合うせいで、紳士服売り場に相応しい――ように見えるだけの、厚生労働省の役人、白鳥圭輔が立っていた。
 くっきりとした眉をしかめて渋い顔を作っている。
「さっきから何度も呼んだんだよ。それなのに無視しちゃって短い足で走っちゃってさぁ、なんなの?」
 それはボクの台詞だ、と思いながら、田口は歪んだ襟を直す。
 痛む首をさすった。
「急いでたから気付かなかったんですよ。悪かったと思います。でもだからって、いきなり人の襟を掴まなくてもいいじゃないですか」
「ぐっちーのくせに僕の呼びかけを無視するからでしょ? 当然だよ」
 天罰だから、と傲岸不遜に言い切って、白鳥は唖然とする田口「で?」と水を向ける。
「なんでそんなに急いでたの?」
「シャ、シャツを買わなくちゃいけなくて」
「シャツ? また、どうしたの」
 僕はネクタイを見に来たんだけどね、と聞いてもいないのにデパートへ来た説明をしながら、白鳥が歩き出す。
 その足取りに躊躇はない。
 田口は誰にともなく大きなため息を漏らしながら、その隣に並んだ。
「誕生日に妹たちにもらったシャツを破いちゃったんですよ。だから同じ物があればなぁ、って思って……」
「へぇ、そうなの」
「あ、ネクタイはあの辺りみたいですよ」
 田口が親切心で促しても、白鳥はそちらを見向きもしない。かと思えば「そのシャツ?」と覗き込むようにして訊ねてくる。
 一瞬ぽかんとして、田口はあぁ、とうなずいた。
「そうなんです。破れたのは脇の辺りなんですけど……」
 救急精神医療責任者に命じられてから、様々な医療用具の置かれている初療室に出入りするようになったのだが、その際にどこかで引っかけてしまったらしい。
 ジャケットの前を開けて覗き込む田口の隣で、白鳥が「はぁ」とわざとらしく嘆息した。
「白衣着てるのに、なんでそんなところを破けるかなぁ。トロいぐっちーのくせに器用じゃない」
「……ネクタイはいいんですか?」
 「ほっといてください」と叫びたいのを我慢して、田口は白鳥に再び、促す。だが白鳥はあっさりとうなずいて、いきなりズボンから抜き出した手で再び、田口の襟を掴んだ。ぐいっと引っ張られて息が詰まる。
「ちょ、しらと、り、さん! 苦し……ッ」
「ふーん、このメーカーならあっちだよ。おいで」
 どうしてこのデパートにそんなに詳しいんですかとか、見に来たネクタイはいいんですか、付き合わなくてもいいですからなどなど、言いたいことは山のようにあったが、閉店まで時間がないよ、と言われて渋々後ろに従う。
 カラーシャツが並べられた一角に立った白鳥は、近寄ってきた田口を何度か見やって、そのうちの一枚を手に取る。それを田口に向かって投げた。
「これだね。なかなかいいセンスじゃない、妹さんたち」
「……ありがとうございます」
 見比べなくても、同じ物だとわかる。
 田口は一応礼を言いながら、白鳥の強引さに呆れていた。親切なのか何なのか、よくわからない。
 軽く頭を下げた田口は値札を確かめて、「ふたりでお金を出し合ったんだな」と思いながらレジに向かい、Yシャツを購入した。福沢諭吉が一枚、消える。
「ちょっと、ぐっちー。まだ終わってないでしょ」
「え?」
「こっち、こっち」
 田口がシャツを買っている間、姿を消していた白鳥は戻って来るなり、下りのエスカレーターに乗ろうとしていた田口を引き留める。反対側に向かいながら振り返った。
「シャツを破っちゃったお詫びに何か買わなきゃ。女の子って鋭いからねぇ、シャツを買ったことくらい、すぐにバレるよ」
「え? そこまでしなきゃダメですか?」
 白鳥はしばし、田口を眺め。
「ぐっちーがモテない理由がよくわかったよ」
 と、嘆息混じりに呟いた。



 白鳥が向かった五階には、インテリアなどの小物から和物の花瓶など様々な贈呈品が並べられていた。
 田口は財布の中身を気にしながら、お揃いのカップなどを手に取ったが、その片っ端から「品がない」「ダサい」「妹さんたちって幾つ?」「地味」「悪趣味」という理由で却下された。
 げんなりしてすっかり落ち込んだ田口に、最終的に白鳥が「これがいいんじゃない? ヨーグルトに合うよ」と指差したのは、透明な手の平にすっぽりと入る小さなカップと、四つ葉をあしらった陶器のスプーンのセットだった。
 どうやら田口が漏らした「近頃、あいつらってば朝にヨーグルトを食べるんですよ。身体にいいらしいです」という一言から導き出したらしい。
 閉店の時間をすっかり過ぎ、痛い店員の視線を気にしていた田口は「じゃ、それにします」と急いで品物を手に取ろうとしたが、何を思ったのか白鳥は店員に「これ、包んで」と頼んで、かつさっさとカートで支払いも済ませてしまった。
 下るエレベーターの中、田口はぼう然と白鳥を見上げる。
「……あの、白鳥さん?」
「じゃ、御礼の品も買ったことだし、妹さんたちの喜ぶ顔を見に行こうかな~」
「え? ウチに来るんですか?」
「ホテルに泊まろうと思ってたんだけど、気が変わった。妹さんたちに会いたいし、久しぶりに泊めてよ。いいでしょ、別に」
 どこまでもマイペースな白鳥に、二の句が継げないとはこのことだ、と田口は思った。



 当然のことながら、田口の妹たちは白鳥の突然の来訪をとても喜んだ。
 今回は肉のお土産がないんだ、ごめんねー! と言いながら白鳥が差し出した紙袋に「え-! これ、わたしたちにですかぁ!」と大声を上げて喜び、さらに中から現れた愛らしいプレゼントに「きゃ~! 可愛い!」と歓声を上げる。
 田口は大喜びする妹たちを尻目に、自室に上がって上着を脱ぎ、客間に布団を用意してから、一階に下りた。ちらっと見た居間には当然のことながら独り分の夕食しか用意されていない。白鳥さんが食べていないようなら、これは白鳥さんに譲ろうと考えながら、何となく冷蔵庫を開ける。
「僕、生姜焼きがいいなぁ。その豚肉で作ってよ」
「うわ!」
 いきなり後ろから声を掛けられて、田口は飛び上がる。
 振り返れば、脱いだ上着を脇に抱えた白鳥が頭の上から覗き込んできていた。
「驚かさないでくださいよ、もう。まだ夕飯、食べてないんですか?」
「食べてないよ。だから作って、ってお願いしてるんじゃない」
作品名:白鳥という厄災 作家名:池浦.a.w