白鳥という厄災
お願いじゃなくて命令のような気もしながら、田口は一応、居間の方を指差してみる。が、察した白鳥が嫌がるように首を振った。
「草ばっかり」
「あれは八宝菜ですよ……」
野菜と見れば草と連呼する白鳥を宥めながら、田口は冷蔵庫の中を改めて見やる。白鳥ご指名の豚肉は、恐らく明日のすき焼きの材料だろう。他に肉はない。
数秒考え込んで、まぁいいかと思い直して、田口は豚肉のパックを手に取った。
「わかりました。今から作るんでちょっと時間が掛かりますよ?」
「じゃ、死に損ないのジイさんの相手でもしますか」
田口の祖父と白鳥は将棋仲間だ。死に損ないって何ですか、と田口が怒るも、「待ってるね」ときびすを返した白鳥は気にした風もなく居間へ戻っていく。
結局、僕は白鳥さんには逆らえないんだな、とため息を漏らしながら、田口は愛用のエプロンを手に取った。
*
「お兄ちゃん、素敵なプレゼント、ありがと! シャツのことは気にしてないからね!」
突然、部屋から飛び出してきた翠がそう言ったのは、風呂に入った田口が自室に戻ろうとした時だった。田口が驚いてたたらを踏むと、上機嫌の妹はにこっと笑う。
「白鳥さんに全部聞いたよ、シャツを破いちゃった御礼なんてお兄ちゃんも気が利くようになったねぇ! 大切に使うからね!」
部屋の中から顔を見せたもう独りの妹、茜が「本当にありがとう!」と唱和する。
いきなり告げられた内容に、田口が事情を飲み込む前に、ふたりはさっさと部屋の中に戻っていってしまった。
タオルで髪を拭いながらぼんやりと妹の部屋を見て、我に返った田口は早足で自室の前を通り過ぎる。
襖を叩いたため、ぼすぼす、という抜けたノック音を響かせてから、白鳥の居る客室を覗き込んだ。
「白鳥さん?」
「なぁに、ぐっちー」
恐らく妹たちの声が聞こえていたのだろう。祖父、周蔵の浴衣を寝間着に借りた白鳥が振り返る。どうやら背広をハンガーに掛けていたらしい。
田口は一度言葉を飲み込んでから、顔を上げた。
「あの……、ありがとうございました。妹たちへのプレゼント」
白鳥はにやっと笑って、お返しはもらってるから気にしない、と言う。田口は首に掛けたタオルを何となく引っ張った。
「お返し、ですか?」
「ぐっちーの手料理に決まってるでしょ-」
と、混ぜっ返して、白鳥はいきなり真顔になる。
「美味しかったよ。生姜焼き」
明日のすき焼きの肉は奮発するから、と付け加えて、白鳥は布団をまたいで田口へ歩み寄る。
襖により掛かりながら、廊下に立つ田口を見下ろした。
「実はさ、今日締めてたネクタイ、妹さんたちから「いつもの御礼に」ってもらったネクタイだったんだよねぇ。その御礼もしたかったからちょうどよかったんだよ。値段見たらやっぱりいい代物だったし」
「……え?」
「じゃ、お休み。いい夢、見てね」
真面目な調子で料理を褒められて、その上に予想外の事実を告げられてぽかんとする田口の頭をぽんぽんと優しく撫でて、白鳥は襖を閉めた。
*
なんだかよくわからないが、どうやら料理を喜んでもらえたらしい、という感想を抱きながら自室に戻った田口は、タオルを椅子に引っかけてぼんやりと天井を眺めてから、寝よう、と漏らして布団に潜った。
薄暗がりで慣れ親しんだ天井を見上げる。
今さらながら事情がわかったが、わざわざ白鳥がデパートの紳士服売り場を訪れたのは、妹たちがプレゼントしたというネクタイの値段を確かめるためだったらしい。
あぁ見えて、案外と礼儀正しい人なんだよな、と、思った時。
――美味しかったよ。生姜焼き。
何の前触れもなく、耳の奥で白鳥の言葉がリフレインした。
そのついでのように、頭を撫でるように叩いた、白鳥の指の長い手が脳裏を過ぎる。
「…っ!」
どうしてなのか急に恥ずかしくなって、田口は熱くなった耳を押さえながら、布団の中で小さな身体をさらに縮めるように丸まった。
もちろん田口は、隣室で布団の上に座り込んだ白鳥が、「ホント鈍いよねぇ、ぐっちーは」などと呟いていたことを、知らなかった。
終わり