二律背反の裏側
全く意識していなかった、と言えば嘘になるだろう。敗北したとは言え、そして千馗の実力を認めたとは言え、義王は根っからの負けず嫌いである。だからこそ、また機会があれば千馗と喧嘩をしたいと考えていたことは否定出来ない。だが、それをあからさまに視線に乗せたつもりはなく、千馗に言ったこともない。
それなのに。
――何故、こいつは気付いた?
「ンな不思議そうな顔するんじゃねぇよ。・・・・見てりゃ、わかる」
呆然とする義王を間近に見下ろしたまま、燈治は不意ににやりと口元を歪めて笑ってみせる。その悪童めいた表情は既に見慣れたものではあったが、何故かそれを目の当たりにした義王はぎくりと身体を竦ませた。
理由は判然としない。ただ、背筋がびりりと痺れるような、奇妙な感覚が義王の頭蓋を打ち据えて、一瞬身体の動きを止めた。
――今のは、何だ。
瞬時の身体の硬直に戸惑う義王の目の前で、燈治は僅かに曲げていた腰を伸ばして空を仰ぐ。その表情が憎らしい程の自信に満ちているような気がして、義王は思わず眼を眇めた。
途端にもやもやとした感情が胸中に湧き上がり、一瞬は戸惑いの下に押し込められた怒りと苛立ちが一気に思考を覆い尽くす。理由など要らない、と頭蓋の片隅で呟いたのは、果たして理性であったのか、本能であったのか。
「何が、わかるってンだよ」
内心の動揺を押し隠して吐き出した言葉に、燈治は少し意地の悪い笑みを浮かべて見せた。それは義王が初めて見るもので、――何故か酷く、いびつに歪んでいるように思われた。
そして暫しの沈黙の後に吐き出された言葉は。
「俺も、あいつのことしか見てないからな」
「――――」
「だから、気付いた。ただそれだけだ」
何事も無かったように、或いは義王の存在すら忘れたような口調で呟いて、燈治はくるりと背を向けた。最早眼中にはないとでも言いたいのか、振り返る気配もなくすたすたと立ち去る背中を、義王は呆然と見送る。
言われた意味がわからない、そう叫んで彼の背中に掴みかかることは難しいことではない筈なのに、何故か身体が動かない。口の中はからからに干乾びて、息苦しさを覚えて深く吸い込んだ息はひうひうと透き間風に似た音を立てた。
やがて燈治の背中は闇の中に飲み込まれ、影に溶けるようにして消えていく。先刻の千馗と同じように、しかし酷くゆっくりと。
「・・・・・・・・」
義王は、その背中が完全に視界から消えるまで動くことが出来なかった。
時間にして僅か一分、或いは二分。その程度の沈黙の中、不意に湧き上がった答えが義王から声と言葉を奪い、身体を硬直させたのだ。
そして残されたものは、ただひとつ。
――敗北感。
「・・・・結局、俺は眼中にないってかァ?」
忌々しげに呟いた言葉にも力はなく、ようようのこと吐き出した声は低く潰れて掠れている。ふつふつと煮える感情は苛立ちであり、怒りであり、そしてそれらを覆い尽くして押し潰すほどの反骨心。
燈治のことが気に入らなかった。いけ好かない奴だと思った。
その理由を、義王は漸く理解する。
「あの野郎、・・・・」
彼は、――壇燈治は、義王のことを見ていないのだ。
あの男の視界を占めるのはいつだって七代千馗であって、傍にいる義王のことなど見てはいない。だからこそ燈治は、千馗に対する己の感情にいち早く気付き、同時に色のない眼で己を見つめてきたのだろう。感情を伴わない視線の理由は、無関心の表れだったのだ。
――傍に在るのに存在を認識されない、この悔しさ。
「ふざけるな、よ」
低く低く呟いて、義王はぐっと拳を固める。きつく噛み締めた奥歯がぎりぎりと嫌な音を立てて軋んだが、不思議と唇は笑みを象った。
何故、と。
考えることは、もうやめた。
「・・・・俺様は、虚仮にされるのが我慢出来ねえんだよ・・・・!」
何処までも己に対して無関心な男への、それは呪詛にも似た言葉。
眼中にないのなら、その視界に己の姿を無理矢理でも焼き付けてやる。必ずや己の存在を認識させて見せると、そう声には出さずに呟いて、義王は宵闇の中へと足を踏み出した。
何故、己の感情が其処まで激しく波立ったのか、深く考えないままに。