合わせ鏡の三日月
イタリアでの諜報活動を終えて一時的にだが祖国に帰ってきたのは、一年で一番バラが美しい季節でもある六月だった。
イタリアに行く前にはアメリカにいたので、こうして自国に帰ってくるのは五年ぶりくらいかもしれない。
五年。ぽつりとつぶやいて、窓の外に見える景色を眺める。
上司に報告するためだけに来るこの建物は、軍部の上層や政治的な役職についている者が仕事をするためだけに来る場所なのに、驚くほどに装飾や美観にこだわっている。なにに必要なのか知らないが世話が行き届き美しく咲くバラが堪能できる中庭に、だれが見ているのかもわからないのにあちこちに施されている装飾。
こうして見下ろす中庭にも色とりどりのバラが咲き誇っている。けれど行きかう人々はみな忙しなく、だれもバラになど眼を止めてはいない。
あんなにきれいなのにもったいないなあ、とぼんやりと呟いて、ハワードは止めていた足を動かし始めた。
ずっと中庭を眺めているわけにもいかない。予定外の一時帰国だったうえに次の任務がいつ入るかわからないので、ここの傍を離れるなと言われているのだ。
実家はロンドンから離れた場所にある。仕事柄自国にいることがほとんどないハワードは、上司が用意してくれた部屋に住んでいるのだが、このあいだの首都を狙った攻撃でその建物が倒壊したと聞かされたのだ。
倒壊しちゃったー、と軽いノリで言われたが、生活するために物を一切合財失ったのだから支援くらいはしてほしい。そう心では思ったが上司にたてつくわけにもいかず、どこかで安宿でも探すしかなさそうだ。
はあ、と溜息をついてゆっくりゆっくりと足を進める。窓の外に見える空はめずらしくも青く澄んでいて、こんなご時世だというのに鳥のさえずりすら聞こえる。
「平和だなあ」
現在の自国の状況を考えたらとてもじゃないがそんな言葉は当てはまらないのだが、この風景だけを見ていればまさに平和そのものだ。風はすこしだけ温かくて気持ちが良いし、なにより束の間の休息に胸は躍っていた。
だれもいない廊下なのをいいことに弾むような足取りで進んでいると、どこからともなく子どものすすり泣くような声が聞こえてきたのはそのときだった。
なんだろうと足を止めて耳を澄ます。しかし今度は鳥のさえずりや人のささやき声しか耳に届かず、聞き間違えだったのだろうかと首をかしげた。愛すべき自国は心霊的なモノと共存するすこし変わった国風がある。なのでここに霊的なモノがいてそれがすすり泣いていても怖いとは思わないのだが、もしかしたら迷子かもしれないと思うと放っておけない気がした。
うむむと眉を寄せつつそろそろと足を進めていると、やはり耳にだれかの泣き声が届いてくる。
これは勘違いではないと確信して、ハワードはぴたりと足を止めた。そして今度は聞き逃さないように神経を集中させる。
声はやはり聞こえる。無視していくことなどできないので、それに導かれるようにハワードは歩きだす。
ヘンゼルとグレーテルが落としたパンくずに惹かれる小鳥のような気分で導かれるままに足を進める。当初の目的地であった階下へとつながる階段を通り過ぎ、行き止まりのはずの角を折れたところで突然目の前に人の陰が現れた。
「わっ!」
「おっと、ごめんよ!」
肩先がぶつかってよろけた身体を支えるために慌てて右手を壁につき、目の前の人物へと視線を向けてハッと眼を見開く。
ハワードとおなじくらいの高さにある蒼い瞳に、輝くような金色の髪。そしてアメリカ兵が着る軍服の上からフライトジャケットを羽織っている特徴的な姿には見覚えがあった。
アメリカさんだ。
心の中で叫んだ言葉はかろうじて音にはならなかった。そのおかげか目の前にすらりと立つまだ幼さの残る青年は悪びれないカラリとした顔で笑う。
「悪かったね! けがしてないかい?」
「あ、はい。もちろんです」
「そう! よかった!」
顔立ちやメガネのせいか黙っていれば知的に見えるのだが、表情や動作、それに口調が子どもっぽくてどうしても見た目とのギャップを感じてしまうのだ。けれどそれが逆に好印象に感じるのだから彼はこのままで良いのだろう。
「ところできみ、この先になにか用かい? ここから向こうは行き止まりだけどもしかして迷ったとか」
「え、いいえ! 違います、大丈夫です!」
「そう? 遠慮しなくてもいいぞ? なんなら俺が案内、」
「いいえー、お気づかいだけで大丈夫ですんで!」
ハワードがちからの限りお断りすると、アメリカはなぜか一瞬ムッと唇を引き結んで無表情になった。
その表情の意味をハワードが考えるより早くさっぱりした笑顔にもどったアメリカが、ポンとこちらの肩を叩いて告げる。
「この先さ、いまちょっと立て込み中の人がいるんだよね。だからそっとしておいてくれるかい?」
「は、はあ」
「ん。じゃあ、俺はこれで」
あいまいにうなずいたハワードの様子を承諾したと受け取ったのか、アメリカはにっこりと笑ってから鼻歌交じりに去っていった。その跳ねるように遠ざかる背中を見
えなくなるまで見送ってから、ハワードはひょいと曲がり角をのぞきこむ。
奥は非常口へ続く扉と倉庫として使われている部屋ひとつしかないようだった。突きあたりの壁に大きな窓があり、一本の背の高い観葉植物が置かれている。
その観葉植物の隣、ちょうど窓の下の壁にもたれかかるようにしてうずくまっている人物がいた。あの泣き声の主はあの人だろうなと判断して、ハワードはじっと見つめる。
立てたひざに額を押しつけるようにして縮こまっているせいで、こちらからはやわらかい色合いの金髪とつむじ、それに彼が着ている服が軍服だということしかわからない。
なんだかよくわからないが声をかけずらい雰囲気だ。アメリカもああ言っていたのだし、ここは大人らしく見なかったふりをして去るべきだろうか。けれどああして泣いている人を無視していくのも良心が痛む。
さきほどアメリカが残していった言葉と自分の良心を天秤にかけて迷っていると、窓の下でうずくまっている人がふいと顔をあげた。そして右袖で何度も涙をふき、それでもおさまらないらしい涙にまた嗚咽をもらす。
ちらりと見えたその顔に、ハワードはさきほどアメリカに言われたことなど忘れて歩き出していた。
放っておけるわけがない。ここで泣いているからと無視していくなんてもってのほかだ。
だって、あそこでうずくまって泣いているのは愛すべき祖国でもある、イギリスなのだから。
「イギリス、さんっ」
あのさびしそうな人のもとに足がたどり着くまでのほんの数秒がもどかしく、ハワードは先に声をかけた。それに反応して顔をあげたイギリスは、駆け寄るハワードの姿を見て驚いたように眼を瞠る。
「は、わー、ど?」
「はい、僕です」
「ど、して……っ」
言葉の途中でイギリスはぎゅうと眉を寄せ、またぼたぼたと涙を量産する。それを隠すように膝に顔を埋めようとしたので、ハワードは慌ててしゃがみこみ眼を合わせて叫んだ。
「いまは帰国中ですがアバティーン出身で諜報と工作活動を専門とするスパイのハワードです!」