合わせ鏡の三日月
開口一番にスパイであることを言われると思っていたので思わずまぬけな声が出てしまう。しかもそれをバカにするように、アメリカは唇の片側だけを吊り上げて笑う。するととたんに子どもっぽさが消えた。取り残されたのは、意地の悪そうな男ひとりだ。
「かかわらないでって、言ったよね? 覚えてくれてるかい?」
「えー、えーと……」
なんの話だと考えているあいだにアメリカはさらに言い募る。
「もう忘れちゃったのかい? 彼が忘れっぽいからって国民までそうではないんだろう」
自分のことならいざ知らず、愛すべき祖国をバカにされたのはその口調と態度で判断できた。そして同時に、この人物にイギリスのところに行くなと牽制されていたことも思い出した。
ここで食ってかかるのは簡単だろう。祖国をバカにするなと怒鳴るのは容易いが、それでは目の前のこの男の思い通りになるような気がした。なのでグッと歯を食いしばって怒りをかみ砕き、わざとへらへらと笑ってみせる。
「いえいえー、すみません、覚えてます。そうでしたね。いやでも、泣き声が聞こえたら放っておけなくて」
「ふーん」
やはりハワードが怒りをあらわにすると思っていたのか、彼は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。けれどすぐにすっと眼を細め、くいと唇の端をゆがめて笑う。
「覚えてたのに首を突っ込むなんて、この国ってどういうマナーを教えてるんだい」
「人に優しく、それがマナーですよお」
「そう。それで優しくして、彼を元気にしてくれたんだ。ありがとう」
「そんな、お礼を言われることなんてありませんよ。彼は俺にとっても大切な人ですし」
そのとき、初めて彼の表情が動いた。
ぴくりと眉が上がり、皮肉気に歪んでいた瞳の奥に激情の色が走る。
「大切な人、ねえ」
声も地を這うように低い。いままでの子どものような高さが嘘のようだ。
いろんな修羅場は越えてきたと自負するハワードも、さすがに身体が凍った。スパイとして調べ上げてきた彼とあまりにもかけ離れすぎていて情けないことに恐怖まで感じてしまう。
ハワードが怖気づいたことを気配で察したのだろう。アメリカはまとっていた空気をさっと消えた。ホッと息をはくハワードの耳に、軽い足音が聞こえてくる。そしてちいさな声で「あ、アメリカ」と呼ぶイギリスの声も届いた。
ホールになかなか来ないハワードを捜しに来てくれたらしい。それとどうじに、どうしてアメリカの最後に渦巻いていた怒気が消えたのかもわかった。
イギリスが来たからだ。彼は、イギリスに『ああいう顔をしている自分』を見せたくないのだろう。
すっかり情報通りのアメリカにもどった彼が曲がり角の向こうに顔を向け、いつもの無邪気な子どもみたいな顔をして笑った。
「やあイギリス! すっかり元気そうで良かったよ!」
「だ、だれのせいだと……っ」
「ええー、きみが勝手に怒って大泣きしてただけじゃないかあ。俺のせいにする気かい! 心外だぞ!」
「うう、うるせえ! 大泣きなんてしてねえよ!」
「またまたあ」
「黙れ! ……と、そうだアメリカ、そこに人がいなかったか?」
「人?」
そう言ってアメリカはちらりとこちらを見る。そしてにっこりと笑った。
「きみのことじゃないのかい?」
「え、ハワード? そこにいるのか?」
「は、はいー! 僕はここです!」
「なにやってんだよ。行こうぜ」
「は、はい!」
慌てて足を動かし、まるで逃げるみたいにアメリカの横を通り抜ける。その瞬間、まっすぐにこちらを見ていたアメリカの唇が動いた。
「二度目はないと、思ってるからね」
耳に響いたその言葉につられて立ち止まることはしなかった。イギリスの隣に立ち、探したんだからなとぷりぷり怒っている彼に謝って歩きだす。
そして十分に距離を置いてから、ちらりと肩越しにアメリカを見た。彼もこちらを見ていたので必然的に視線が合う。
じゃあね、と動く唇。そしてひらりと振られたてのひらを記憶に納めてから、ハワードは前へと向き直った。
子どものような態度と、ハワードに見せた残虐性。巧みに隠された二面性はさすがに世界の頂点に君臨する器なだけあると関心する。
けれどそれよりも、イギリスを自分の所有物のように言う態度だけは許せないと思った。
そう思った理由は、いまのハワードにはまだわからなかったが。
END