まっくらやみ
そして、何よりナルトを恐れさせるのは、その日からナルトにとってのシカマルの立ち位置というものが微妙に変化し始めているという事実だった。簡単に突き放せていたものが突き放せなくなってしまう。朝食を一緒に取るくらいいいいだろと言われて、断れなかったのもその一つだ。蝕む毒のように、それは確かにナルトに回っていた。自分自身が、自分自身でなくなっていくようなそんなひどい不快感がある。消化されないもやはナルトの気分をどんどん降下させていた。そんな中でナルトが思うのは、最初に会った時シカマルに対して抱いた言いようのないあの憎悪のような感情は果して、これを示唆していたのではないだろうかということだった。
そして何よりナルトにとって一番恐ろしいのはシカマルに起こったような変化が、いつ、誰に対しても起こりうるということだった。今まではそんなこと考えもしなかったが、決して起こり得ないとは言えないことが今になって背筋を冷えさせる。内側からの浸食は、多分外側からの浸食よりもずっと暗い部分をえぐるんだろう。そして、それを許してしまうかもしれない自分に悪寒が走った。
(それは死ぬ事と同義だ)
里の人間も、シカマルも、根底は同じようなところにある。他人というカテゴリから外されることはないし、それがナルトにとっていい感情かといえば違う。だが、シカマルは、ナルトにとっていい意味でも悪い意味でも特異な人間だった。
ナルトにしたら、それは排除すべき由々しき事態だった。けれど、それを先送りにしようとする自分がいる、考えないように見ないようにする自分がいる、吐き気を伴うぐらいに気色悪いのに、反面それをどうにか維持しようとしている。シカマルは余計な詮索もしなければ、触ってほしくないところや聞かれたくないとナルトが思っていくことがまるでわかっているかのように、そういうところには一切触れようとしなかった。ただそばにいようとするだけだ。ともにご飯を食べたり、挨拶をしたり、そんなどうでもいいことばかりしようとする。それなのにもかかわらず、シカマルはナルトの中ではもう随分と深いところまで踏み込んでいた。
他人だともう拒絶できないところにシカマルはいる。そして、柔らかに、とても優しい手つきで自分というものの根底を崩そうとしている。それは何に変えても守らなければならないものだったはずなのに。
ナルトが顔を上げると太陽はもう沈みかけて、空は赤く色づき始めていた。
足を踏み出した格好のままナルトがぼんやりと空を見上げていると、台所で水でも飲んできたらしいシカマルがちょうど書庫へ戻るところだったのだろう、不思議そうに首を傾けた。
「どうかしたのか?」
シカマルがナルトの背後で足を止めると、自分の思考にすっかりとはまりこんでいたナルトはびっくりしたように振り返り、それからすぐに気まずそうな表情になって視線を逸らした。だから顔を見たくなかったんだとナルトは低く呟くがその声があまりに小さかったためにシカマルに届くことはなかった。
「これから任務なんだろ?」
歩き始めたナルトは後ろをもう振り返ろうとしなかった。言葉を返さないのはもう常のことなので、シカマルはいちいち気にしたりしない。ナルトの中ではくるくると回る言葉ばかり小さな警告を与えていて、ナルトはむしろそちらに気を取られていた。あまりにもささやか過ぎる鮮烈な警告が脳裏を瞼の裏を焦がしている。
今日最後の光を燃やしているだろう夕日はもう沈みきってしまったんだろうか。頭上は暗く、ナルトはちょっと時間くっちまったと思いながら、そのままけもの道へ消えていこうとした。すると後ろでシカマルが、おい、とナルトを呼びとめた。ナルトは何、と足を止めて、振り返ってから後悔した。
「ちゃんと帰ってこいよ。」
シカマルが俄かに笑みを浮かべながら言うので、また嫌な予感のようなものが胸内を過ぎった。これはいけないと、ナルトは思う。
気持ち悪さを吐き出すように何で、と語調を強くして返すと、シカマルは柔らかく開いていた目を驚いたように瞬かせた。
「何でって、ここ、お前の家だぜ。」
「そうじゃない。何でお前にそんなこと言われなきゃならねぇんだ。」
「言っちゃ悪いのかよ。」
「そういう問題じゃない。お前は何でそんな事言うんだよ。関係ないだろ、俺のことなんて。」
「関係なくはねーだろ。」
「お前と関係あるのは俺じゃない。俺と、お前は、赤の他人だ。」
苦虫を噛み潰したような顔でナルトが吐き捨てると、シカマルは難しい顔をして頭をかいた。
「お前、本当に面倒くせー性格してんのな。」
「何が。」
「関係あるとか、そういう話じゃねぇって言ってんだ。」
睨みを利かせるナルトを諌めるようにシカマルは苦笑いを零す。ナルトは、納得いかない表情を崩さないままくるりと綺麗に踵を返し、けもの道に向かって足を進めた。
小さな子供の背中が、庭の真ん中を遠ざかっていく。見慣れた派手な色合いでない黒の服装はある意味似合っていたが、すっぽりと闇に紛れてしまう姿は忍としてはとても正しいけど正直余り好きではないなとシカマルは何となく考える。
垣根の向こうに消えるとき、ナルトはふいに立ち止まり、シカマルのほうを少しだけ振り返った。
「ばっかじゃねぇの。」
ナルトは吐き捨てるように呟いて足早に垣根を通り過ぎた。
暫くがさがさと草むらを歩いて歩いてナルトはふと、思い出したように足を止める。熱くも無い風が獣道を吹きぬけて追うように空を見上げた。
シカマルがただこちらを見る視線を、内心を見透かされているようだと、気持ち悪いと感じなくなったのは何時からだったのか、ナルトはふと思い、けれど思い出せなかった。思い出せないままに、ナルトは色付いた雲を見る。風が過ぎる。
(少なくとも、俺は、)
木々がこすれあうような音がする、これからを示唆するような、小さな警告だ。
西に沈んだ太陽の光がまだ燻るように雲を燃やして、色を濃くした木々の葉は風に揺れながら影を落としている。黒く、影のように伸びた枝が空を目是して背を伸ばしていた。その隙間から、誘うように広げられた闇が手招きをしている。
(この世界以外を知りたくなかった。)
肩越しに家を振り返ると、小さくなったシカマルは丁度部屋の中に消えていくところだった。
広い背中に闇がまとわりついているのが見える。この辺りは森の中だから、街中よりもずっと暗くなるのだ。
(忍というなら、きっとあいつも同じことを思っている。)
確信のようなものがナルトの胸のうちに湧く。どうして、いとも簡単にシカマルは境界を踏み越えてしまうのだろう、ナルトが作り上げてきた世界を壊そうとするのだろう。少しだけ表情を曇らせたナルトは、太陽の沈みきった空が翳っていくのを見つめる。それはシカマルだけのせいではなく自分のせいでもあるのだということをナルトはきちんと理解はしていた。重苦しい息を吐いて見上げた空の色が、無彩色に塗り替えられていく。
(なのに、どうして俺を連れ出そうとするんだろう。)
ぼんやりとしたまま息を吐くと、捉えた視界を一羽の鳥が横切った。
火影からの二度目の催促だった。ナルトは首もとの布を引き上げる。
(それにどんな意味があるんだ。)