Effects&Truth
Effects・3
その後、天方伯のロシア行きに付き従えるだけの信頼を私が勝ち得ることが出来たのは、ひとえに身につけていた語学力故であった。
そして、目上の者に従順であることもその一因である。
幼き頃よりの常であったそれらの行いは、頭よりも身に刻まれた記憶であり、我が品行方正さそのものであった。
冷静な私ならば、自尊心故に疎んじる気も起ころうが、今の私にはどだい無理な話で、それどころか、かえって良いもののように思われた。
肉体の記憶は意志を伴わない。
集中力を欠いていても、気力を注ぐことが出来なくても、私は常に、相沢が、天方伯が望む品行方正な人間でいられた。
ロシアでの私、いや、相沢との再会を果たした後の私はまさに国家人という名の機械となり果てていたのだ。
命じられたことは完璧にこなし、問われたことには相手が満足しうる返答を返すことも出来た。
だが、そこには一片の感情さえありはしなかった。
故、エリスからの文でさえ、ただの文字の羅列。
言ってしまえば、公文書と大差なかった。
その文にこもったエリスの怖いくらいの情念にすら、私は何の感銘も受けなかったのである。
感情の凍結、ではなく、感情の混乱、交錯、錯乱…。
私は深い霧の仲で彷徨う遭難者のように自らの心にある真実も、他者の思いさえも何もかもを見失っていた。
エリスの妊娠が、真実としてドイツへ帰ってきた私の前に横たわっていた。
妊娠そのものは相沢と再会する前から発覚していたが、その頃それはただの事実としてあっただけで、大気をつかむように何の実感もありはしなかった。
ありはしなかったというのに…。
まず私を迎えたのは、エリスと、白い木綿の布やレースの山であった。
「見てください。素敵でしょう?」
満面の笑みと共に、エリスは一枚の布を取り上げ、抱きしめた。
「わたしはうれしくて、うれしくて…。
産まれてくる子はきっと、あなたと同じ黒い瞳を持っているでしょう。夢にまで見たその黒い瞳を…。
その子に、まさかあなたと別の姓を名乗らせるようなことはなさらないでしょう?」
私を見上げる目には歓喜の涙がにじんでいたが、私には何も言うことが出来なかった。
彼女の喜びが、狂気のようだった。
帰った日から二、三日を経て、私は天方伯に呼び出された。
私の陰鬱(いんうつ)として、低迷した気持ちを払拭(ふっしょく)するような厚遇は、私の復帰の話であった。
私は驚きのあまり、伯の脇にいる相沢を凝視してしまった。
私の驚きを察して、彼は眉をひそめた。
『嬉しくないのか?』と問われているようだった。
確かに私の胸中にそのような感情はあった。
だが私にはエリスに対して負い目があった。
エリスが私に愛を与えてくれたからだ。
そして、彼女は私が彼女を彼女と同様に愛することを望み、それが今は叶っていると信じ切ってしまっている。
それは、私には重すぎる愛情であった。
何故なら、私はただ一人しかそのように愛することが出来ないから。
そして、そのただ一人の相手はエリスでなく、今目の前にいる私を友としか思っていない、私と同性のこの男でしかあり得ないのだ。
私は相沢と再会するまで、エリスを全身全霊かけて愛せると思っていた。
彼女が求めるように彼女を愛せると本気で思っていた。
でも、できなかった。
私は、私が生まれて初めて本気で愛した、愛し合いされることの喜びを教えてくれた、この世でただ一人と一度心に決めた彼のことを愛さないなんてもう考えられなかった。
離れてみて、他の誰かを会いそうとして、ようやく気づくことが出来た、私なりの真実が、まさにそれであったのだ。
「承知しました」
もう私は、相沢との別れには耐えられそうもなかった。
エリスの顔が浮かぶ。
屈託無く笑うエリスの顔が、悲しみに歪むのだ。
何の疑いもなく、ただ私を愛し続けてくれたエリスへ、私は最後に史上最悪の贈り物をせねばならないのだ。
そう思えば思うほど、私の重い足取りが更に重くなり、ついには動くことを拒否した。
降りしきる雪の中で、私はベンチに座り、空を仰ぎ見た。
そこからはらはらと舞い落ちる粉雪は見た目よりずっと冷たく、ずっと儚かった。
ああ、神よ。
もしも私に加護を与えてくださるのなら、今すぐに、我が浅ましき情念を凍結させ、砕いてしまってください。
周囲のもの全てを傷つけようとする我が未熟なる刃を、この心の中から消し去って…!
うつろう意識の中で見たのは、エリスではなく、相沢の謀(はかりごと)が叶った随喜の顔であった。
骨に染みる寒さが痛さに変わり、とうとう感覚がなくなり始めた頃になって、ようやく私は帰った。
「どうしたの?!」
エリスの驚きは当然だった。
私のかじかんだ足は思うように動かず、帰途上幾度も転び、いつの間にか帽子を失い、髪は乱れ、顔は死人のような土気色となっていたのだ。
弁明しようとしたができなかった。
私はそのまま、倒れてしまったのである。
私は高熱にうなされた。
何も考えなくて良く、何も考えられない状況は、私の罪の執行猶予を先延ばしにしてくれた。
しかし、それが最悪の結末をもたらす羽目になった。
相沢が私を見舞った折に、私が隠していたこと全てをエリスへ明かしてしまったのである。
私はそれを後で知らされた時、我が耳を疑い、自分が目覚めていなかったことを激しく後悔した。
悔やんでも悔やんでも悔やんでも、私はこの悔恨の情を消し去ることなど出来るはずもなかった。
何故ならエリスは、あまりの衝撃に、心を手放してしまったのである。
糸の切れた風船のごとく、それはもう、彼女のもとへは帰ってこない…。
全ては我が弱さ故、弱さ故のことと知りつつも、相沢を恨む心を私は止められるはずがなかった。
人一人の真剣な感情を踏みにじってしまったのだ。
私の考えとは無関係なところでそれをさせた相沢を、私が恨み、罵るのを誰が止められただろう…。
だが、私の相沢への想いは、それにすり替わることなく存在し続けた。
もう私には、相沢を嫌うことなど、永久に出来そうもない。
別れはもう、たくさんだった。
相沢への恋情と共に、この憎悪は、これからも私を支配し続けるのだろうか…?
作品名:Effects&Truth 作家名:狭霧セイ