雨上がりに咲く
どうしたんですか、と思わず椅子から立ち上がってしまった。
先程止んだばかりの雨は、どうやら外を歩いていたらしいシュミットの移動時間には間に合わなかったらしい。
肩はしっとりと濡れて、濃色のシャツはさらに濃く色が変わってしまっているし、髪の先からはぽとぼとと雫が滴っている。
玄関口から自分の部屋にも寄らず真直ぐにここに向かってきたらしいことは分かるが、何をそんなに慌てて迎う用事があったのだろうか。
今日は二人で約束をしていたわけでもなし、明日の練習のための打ち合せは既に済ませているし、さて。
考えながら、とりあえずタオルを取り出して手渡そうとした。
「大丈夫ですか?」
聞けばなんらか答えが返ると思っていたのに、シュミットの両の手はどちらも差し出される気配はない。
「シュミット?」
相変わらずぽたぽたと雫は落ち続けていて、仕方がないのでエーリッヒはタオルを広げて頭から被せた。
黙っているのはもしかしたらお前が拭けという意思表示なのだろうか。
まったく困ったひとだと内心で溜め息をついて、そっと髪をなぞるようにタオルを動かした。
「…………エーリッヒ、」
「なんですか?」
ようやく声を発したと思ったら、ついと差し出されたシュミットの右手。
よくよく見れば泥に塗れた指先に、エーリッヒは目を丸くした。
とこかで転びでもしたのか、いや、それにしては服は綺麗なままだ。
見たところ怪我をしている様子もない、と、思うのだが、
「………?」
差し出された手をまじまじと見やる。
手のひらの中に一塊の土と、小さな、
「花、ですか……?」
とても小さな花びらが五枚、白いそれは雫を弾いて可憐だが、取り立てて華やかさだとか派手さだとか、そういった美しさからは遠いように思える。
種類分けするなら、草花、とでも言うのか。
根ごと掘り起こされたそれは、葉の一部が歪んで折れ曲がっている。
さすがに上流家庭に育っただけあって、割と審美眼は備わっているシュミットにしたら、普段なら歯牙にもかけない、そんなものだ。
「植木鉢、ないか」
「は、い?」
「植えてやりたいんだ。ないか」
重ねて問われたが、植木鉢の有無よりも植えてやりたいんだという一言に脳内がとらわれた。
シュミットには、庭いじりの趣味など当然ない。
飾ってあれば綺麗だなと花束を誉めるくらいはするが、だからといって植物に造詣が深いだとかそんなことは聞いたこともない。
「ないか、やっぱり」
「え?あ、ああ、ええと、」
我に返り、そういえば、忙しい時期に世話を見切れなくて枯らしてしまった花の鉢があったようなと思い出した。
待ってください今、と棚の中を探し回る。
室内を濡らしては、とでも思ったのか、いつもは勝手知ったる顔で入り込んでくるシュミットは、入り口でタオルを被ったまま立ち尽くしている。
ちらりと視線を向けると、手のひらに優しげな目を落としているシュミットに行き当たった。
「………?」
雨のすっかりあがった庭で、小さなスコップを片手にシュミットが土を掘り返している。
しゃがみ込んだ背中を相変わらず疑問符を浮かべたままの視線で見つめていると、やがてシュミットが、詰め込めるだけ土を詰め込んで、ぎゅうぎゅうと花を押し込めようとし始めた。
「だめですよ、シュミット」
「何がだ?」
「そんな風にしたら、根が千切れてしまいます。もう少し優しく」
「そうか?分かった」
やたらと素直に手つきを改めて、シュミットはとても真剣な顔だ。
小さな鉢ひとつ、自分が手を出すところもなく、エーリッヒはただただそれを見ているしかない。
真剣な、背中。
まるでレースに参加するときに匹敵するかというその姿に、エーリッヒは疑問符を募らせてばかりだが、集中しているシュミットの邪魔をするのも忍びない。
終わるまでは待とうと、空を見上げた。
雨が上がったとはいえ、雲の引ききらない空は未だ灰ずんだまま。
けれど、所々に薄くなりつつある部分があるのだから、そろそろ切れ目から陽も顔をのぞかせるかもしれない。
ここのところ雨が続いていたから、日差しが恋しい。
晴れたら二人で遠乗りをしようという約束もしていることだし。
そしてまた、シュミットに視線が戻る。
「……………できた」
すると、シュミットが満足げに鉢を持ち上げて、まるで日にでも透かすように掲げた。
太陽は、まだ出てはいないのだが。
「お疲れ様でした」
言って、満足げな顔に改めて首を傾げる。
「……シュミット、」
「何だ?」
「一体どうしたんですか?花に興味なんて、ありました?」
「別に植物に興味はない」
「…じゃあ、なんで、」
「これか?」
鉢をひょいと掲げもち、少し迷うような顔をした。
「……歩いていたときに、踏みそうになったんだ」
おそらく道端にでも咲いていたのだろうから、いかにもありそうなことだ。
けれど、「踏みそうになった」ということは実際には踏んではいないのだ、おそらく。
シュミットがわざわざ手を汚してまで植え替えるような、そんな理由にはどうしても繋がらない。
エーリッヒはまた首を傾げた。
けれどそれ以上シュミットは話す気がないらしく、
「部屋で育てることにする」
毎日水をやればいいんだろう?それくらいは俺にもできると話題を変えられて、エーリッヒは理由を探るのを断念した。
「枯らさないでくださいね」
見たところ、野草のようだから生命力は強いのだろうが。
まあシュミット一人でも大丈夫だろうと考える。
「………花には水が必要だが、」
「はい?」
「俺には何か温かいものが必要だ」
雨で体が冷えたんだ、一杯入れてくれないか。
鉢を抱えたままに頼まれて、エーリッヒはゆっくりと微笑んだ。
「はい」
雲が切れたのだろうか、どこかからか薄日が差して、シュミットの手の中の白を明るく照らした。
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