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【黒の皇子 黒の神子】(中編小説/未完)

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~プロローグ~



 ◇◇

 どこまでもぬけるように青い空。ただ穏やかに吹く風。
 ざわめく人々を遙かな高みから見下ろすかのように、鳥が空を飛んでいた。
 涙の滲む視界にそれを捉えた少女は、死者の魂は鳥となり、彼岸の果てへと飛んでいくという古い言い伝えを思い出して涙をこぼした。

「お帰りなさいませ、ゼロ様」
 死を約束していたはずの拘束から解放され、少女は助けてくれた者たちに礼を言うと、彼らからそっと身を離す。
 そのまま路上へと降りた少女は、少し小走りになりながらも優雅な所作で、晒し台とも呼べるそこに手を掛ける。拘束されていた腕は少し痺れていたけれど、群集がそこに至る前に、と力を篭めて血の流れるその場所へと上った。
 後ろでは、彼女と同じように拘束されていた者たちが次々に解放されている。彼らの抱く戸惑いと疑いを感じながら、彼女はそっと心の中で息を吐いた。
 すぐ傍らには兄を亡くした悲しみに嘆く哀れな皇女の姿。しかし彼女が皇女に視線を向けることは決してなかった。彼女のいる場所よりも更に上、皇帝の座していたその場所に何も言わずに佇む漆黒の救世主を、少女は真っ直ぐに見つめていた。
 血に濡れた剣をかざし、こちらを見下ろす仮面の男。その姿に僅かに目を細めた彼女は、深く頭を下げ彼に膝を折った。
 下げた目線の先には、胸を貫かれ倒れた若き皇帝の姿があった。彼から流れ出た赤い血が、彼女の纏う白い拘束衣へと染み込んでいく。
 心地良いとは決していえないその感触。しかし彼女はそれを好ましく思った。赤い血も、その命も。この哀れな皇帝の全てを我が身に取り込めたなら、どんなに幸せだろうか。そう彼女は心の中で呟き、仄暗い笑みを浮かべる。
 少女の表情は、重力に従って流れる美しい黒髪に隠され、上に佇む男からは知ることが出来ない。けれど、彼はそこに紛れもない悲しみを見ていた。それは彼女の悲しみか、それとも彼の抱く悲しみを映し出したものであったのか。

 世界を暴虐と恐怖により支配しようとしたとされる【悪逆皇帝】の死体の傍で、世界の救世主【ゼロ】に跪く少女。この茶番劇の真相を知る、数少ない人間の一人。
 彼女がそれを表に出すことは、決してない。自分が今膝を折る相手の正体を知りながら、それでも彼こそが真実の救世主だというように、彼女は恭しく頭を下げる。
「この皇神楽耶、貴方様のお戻りを心からお慶び申し上げます」
 喧騒の中、凛とした声が響いた。真実を知る者たちは、何も言えず複雑な感情と共に彼らの姿を見つめる。
 そして、悪逆皇帝の死体を傷付け辱めようと向かっていた民衆は、神聖さすら感じさせる少女の姿に、それ以上近付くことは出来なかった。

「……ご無事で何よりです」
 彼女の無事を喜ぶ、男の言葉。世界の誰もが聞き慣れた、変声機を通したその硬質な声。一度ならず、二度までも奇跡の復活劇を見せた黒き救世主。彼のこの場で初めての声に民衆は沸くが、言われた神楽耶はその声を拒絶するかのように、ぴくりと肩を揺らした。
「ありがとうございます」
 動揺を完璧に隠した柔らかい声で応え、彼女はゆっくりと白い面を上げる。
 まだ幼いその顔に浮かぶのは、どろりとした闇を宿す心とは異なる、穏やかで毅然とした微笑み。
 その姿に、まさにゼロの妻、そして初代合集国議長として相応しい方だ、と彼女を称える声があちらこちらから上がった。悪逆皇帝に屈することなく抗い続けた、素晴らしい女性。さすがはゼロが妻に選んだ人だと。
 その声に神楽耶は一瞬眉を寄せたが、その笑みを崩すことはなかった。けれども、強く握られた白い手は、抑えられぬ感情に微かに震えている。
 そのことに気付いたのは、たった一人。すぐ傍にいたナナリーだけだった。最愛の兄の死体に縋り涙を流しながらも、彼女はそれに気付いていた。その震えが、神楽耶がルルーシュたちの真意に気付いているのだと、彼女に教える。気付いていて尚、彼女は喜びを演じているのだと。
「神楽耶、さん」
 震える声は喧騒に紛れ、掻き消えてしまった。それでも神楽耶の耳には届いたのだろう。言葉と同時に更に強く握られた拳を、ナナリーは見てしまった。そのとき彼女の中に湧き上がったのは、どうしようもない絶望だった。
 故国を離れ、枢木家で暮らした八年前の夏。初めこそぎくしゃくしたものの、親しく接してくれた、この国の象徴たる皇の少女。幼い頃に失った光を取り戻し、初めてその姿を見ることが叶った彼女は、あの日々が嘘のように強くナナリーを拒絶していた。
 立場を考えれば当然のその姿が、ナナリーには酷く悲しくて苦しかった。
 もう、何もかもが変わってしまったのだと。あの夏の日に戻ることは出来ないのだと、今更ながらに彼女は実感する。

「悪逆皇帝ルルーシュ」

 神楽耶の口から紡がれた忌むべき名前。その響きに、ざわりと空気が動いた。
 ゆったりと立ち上がった少女は、冷たい瞳で悪逆皇帝を見つめる。その瞳の中には、彼への拭えぬ恨みがあった。豪奢な白い衣を己の血に染めたまま動かない、愚かな少年への恨み。
(ルルーシュ……)
 唇から紡がれる、温度のない声。それとは裏腹に、神楽耶は全ての想いを篭めて彼の名を心の中で呼んだ。彼女を置いて去っていく、誰より愛しくて、誰より恨めしいその人の名を。
「世界を支配しようとした愚かな男は今、ゼロ様の手によって滅びました」
 淡々と語る神楽耶の顔には、揺るがぬ笑みが浮かんでいる。
「ブリタニア人も日本人も、かつては相争っていた人々が手を取って私たちを助けてくださった。そのことを私はとても嬉しく思います」
 彼女の言葉に耳を傾ける聴衆たちを見回し、神楽耶は最上級の笑みを浮かべた。礼の言葉と共に下げられた頭に、感極まったような声を上げる人々がいる。
「ゼロ様が望んだ、日本人とブリタニア人が……いいえ、国籍など関係なく人が人として共に在れる世界。その始まりを私は今、ここに確かに見ることが出来ました」
 それは真実だった。ルルーシュの死によって、かつてゼロが提唱した世界は成されようとしている。全ての歯車は彼が望み意図したとおりに噛み合い、動いていた。
「だからこそ、私は今ここで改めて誓いましょう。私はこれからもゼロ様と共に『優しい世界』のために歩み続けると」
 静かに佇む【ゼロ】を見上げ、神楽耶は強く高らかに誓う。
 その言葉に沸く民衆たちとは対照的に、彼女の心はどこまでも暗く重く。けれど、彼女がそれを表に出すことはない。それが皇の神子たる彼女の矜持であり、愛した男の最後の願いでもあった。