紡がれる空
ふわりと、久しい匂いの風が、頬を掠めた。
見上げた空は少し乾いていて、砂が時々舞っている。
以前ここへ来たのは、そう遠くない昔だったのに。
――とても懐かしい、と感じた。
「――お帰りになられていたのですね」
後ろからかけられた声に、太公望は顔だけを向けた。
そこに立つのは、唯一の血縁である彼女。
「むぅ……邑姜か」
「戦いは、終ったのですね」
すっかり朝歌・禁城に馴染んだ邑姜は、突然来訪した太公望に笑みを浮かべた。
「武王はどうした? 仕事か?」
「いえ……牧野の闘いで受けた傷が良くなくて、今、医者の往診を受けています」
「そうか……」
遠い景色を眺めながら、太公望は目を少しだけ細めた。
「――と言っても、本人はどこ吹く風ですけどね。隙あらば、私や周公旦さまから逃げ出して城下に出ようと画策してますよ」
邑姜はそう言って、太公望に並んで柵に寄りかかった。
「ふむ……噂は聞いていたが、本当だったとは。王が城下で子供達と遊んでると」
「子供どころか、出会った人と意気投合して翌日の朝にべろんべろんになって帰ってきたり、女性を追いかけていたと兵士から苦情がきたり」
「かっかっか! 相変わらずじゃのう!」
西岐にいた頃ほど自由は無いのだろうが、それでも、姫発が自分らしさを失っていないことが嬉しかった。
きっと、逝ってしまった姫昌も安心していることだろう……
事を達せず寿命を向かえた姫昌は、それこそ満ち足りてこの世を去ったが、しかし、それでも息子達を心配しているに違いないだろうから。
「――……のう、邑姜」
「はい?」
「突然だが……つかぬことを聞いてもよいか?」
「……? ええ、どうぞ」
急に改まった太公望に、邑姜は不思議そうな顔をした。
太公望はそれを目の端で捉えながらも、頑なに遠くを見つめる。
「おぬしの……祖先のことだ」
風が、強く吹いた。
「……ひいおばあちゃんのことですか」
邑姜の声は、静かだった。
「――わしは……その昔、羌族が妲己の人狩りにあった時、あやつも一族と共に殷王家の墓に生き埋めにされたのだと思っておった」
「………」
「まさか、生きていようとは夢にも思わなかった」
太公望の言葉を、身じろぎもせずに邑姜は聞いていた。
凪ぐ風が、客間を囲む池の水面を揺らす。
二人の影も、共に揺れた。
「……仕方ないでしょう。ひいおばあちゃんは、助かった数少ない者達と共に逃れ、隠れ生きたのですから」
ようやく、邑姜が口を開いた。
感情的でもなく、抑揚の無い言葉は、真っ直ぐに太公望に届く。
「あなたが、気に病むことではありません」
「………」
「というより、あなたがそれを気に病むなんて思いませんでした」
「……どういう意味だ?」
「あなたの中で、それはもう整理のついた事なのかと。……そう思っていました」
向けてくる視線が、優しい。
恐らく気を使ってくれているのだろう。
だが、それほど太公望も感傷に浸っているわけでもなかった。
「驚きはしたがの。おぬしが”呂”を名乗った時はな」
太公望は、ふと笑みを浮かべる。
血縁をあれほど頼もしく嬉しく思ったときは無かった。
「……しかし、どうしてものう。気にかかる事があっての」
「? 気にかかること……?」
「ああ。――今更、あやつの事を悔いるつもりはない。あやつはあやつの、人生を歩んだのだろうとわしは思っておる」
「………」
「だがの。知れるものならば、わしは知りたい」
「………?」
「あやつは……――」