紡がれる空
医者の診察が終った姫発は、鼻歌交じりに廊下を歩いていた。
邑姜や周公旦が言うほど傷は悪化しておらず、順調だと聞いて、彼は気分がよかった。
この調子だと、またこっそり城下に降りれるかもしれない。
さっそく策を練ろうと部屋に向かっている所だった。
と、そこにふと、客間の殿に人がいるのが見えた。
「――ん? ありゃあ、邑姜と……」
姫発がよく見知った人物――
「太公望じゃねぇか!! あいつ、仙人界から帰って来てやがったのか!」
それは、自らの国の軍師であり、友として信頼の厚い人物だった。
姫発は、一時期は人間界まで被害を受けた仙人界の争いは収束したとの報告を受けていた。
しかしそれ以外の事は詳しく聞いておらず、おいおい使者を向けるからと楊ゼンに言われていた。
それから一月余り経ち……
姫発は今か今かと待っていたのだが、依然仙人界からは連絡は来ていなかった。
「水臭ぇやつだなぁったく! 挨拶にくらい来いっての!」
久しぶりに会った友に、武王は浮き足立って客間へ向かう。
――しかし、武王が二人と数本の柱を隔てたすぐ傍に来た時、その歩みは止まってしまった。
「邑姜……――」
「太公望、さん……?」
太公望が、邑姜の頬に触れた。
包むように優しく、親指で邑姜の目元を撫でる。
ぼんやりと自分を見上げる邑姜が、愛おしくて、太公望はまた目を細めた。
「あの……、」
慈しむその手つきに、邑姜が戸惑っているのが見て取れた。
だけれど、彼女はそれを嫌がっているわけではなく、ただ、自分を推し量ろうとしてくれているだけなのだとわかる。
太公望と邑姜の、瞳がかち合った。
奥に潜む光が温かい……――
「ちょ、っっっと待った―――――っ!!!」
突然響いた叫び声に、太公望も邑姜も固まった。
二人が声の方に顔を向けると、狂相の姫発がこちらに向かって来ている。
「武王! そんなに走ってはお体が……!」
邑姜が慌ててそれを止めに行く。
振り切られる形となった太公望の手が、空を泳いだ。
「うるせぇ! そんな事より………い、てて」
「ほら、言わん事ない! 無理はなさらないようにと言いつかっているでしょう?」
よろけた姫発を支える邑姜。
腹を抑える姫発は、ばつが悪そうに顔を顰めた。
「くくくっ。姫発のやつめ……」
その二人を柵の傍で待ちながら、太公望はこっそりと一人含み笑いをした。
すぐに姫発が自分たちを勘違いしたのだと察しがついていた。
「てめぇ太公望! 仙人界の闘いが終った途端、タラシに来たのかよ!」
「はぁ? 武王、一体何を……」
鬼気迫らんばかりの姫発に、邑姜は首を捻る。
「だあほ。おぬし、何を言っておるのだ」
太公望も、姫発を蔑むように言った。
「おぬしの目は節穴か。どこをどう見たらわしが邑姜を誘惑してるように見える」
「なっ、誘……!?」
「何だと! 現に今、こいつを……」
そう言いかけて、姫発ははっとしたようだった。
太公望を見、邑姜を見て、再び視線を戻す。
「まぁ……少々懐かしみ過ぎたかのう」
そんな姫発に太公望は嫌な笑みを浮かべる。
何という事はなかった。
ただ、奇跡的に会えた曾姪の顔をよく見ていただけのことだった。
見れば見るほど懐かしさは募るもので……――そこには面影が無くもなかった。
「かっかっかっか! 若いというのはよいものだ」
それを聞いた姫発の顔がみるみる赤くなる。
益々楽しくて太公望は高笑いをするのだが、邑姜だけが怪訝そうにしていた。
「よいよい、武王。それよりわしは腹が減った。何か食い物をもらえんかのう」
「お、おう……」
「ヒャハハッ!!! いいのう城は! いいのう食い物があるというのは!」
「………」
狂ったように笑う太公望に、姫発もばかばかしくなったのだろう。
深くため息をつくと、客人をもてなすように部下に指示する。
「あと、しばらくここに滞在するので、わしのダラダラコーナーを用意せい」
「だ、ダラダラ……?」
「おう、邑姜。桃はないのか桃は。わしの大好物だぞ」
「はいはい……」
「次はアンマンをくれ。井村屋のしかわしは食わんぞ」
「………」
――そうして、太公望は数日間禁城でダラダラの極みを行ったという。