紡がれる空
「――さーて、わしはそろそろ行くかのう」
皆が仕事中を見計らって、太公望はつぶやいた。
ダラダラしていた体を起し、伸びをする。
そろそろ仙人界も落ち着いてきた頃に違いなかった。
報告に来た者達に自分の姿が見られるのはよろしくない。
しかし出て行く前に、せめて何か書き残して行こうと部屋を見渡す。
「――あら、太公望さん。まだだらだらしていたのですか? そろそろ四不象達が心配してるのでは?」
「おう、邑姜か。そうだのーう。かっかっかっか! 心配もくそも無いだろうがのう!」
四不象達は、太公望が生きている事を知らないのだ。
太公望はそれがおかしくておかしくて仕方が無い。
「何を笑っているのですか。では、私はまだ仕事がありますので」
「よいよい、精を出して民に貢献するのだ。ハーッハハハハハ!!!」
ぐーたらの限りを尽くし、その近くでせかせか働いている者がいるという光景もまた、おかしくて仕方が無い。
「あ、そうそう。今夜は武王が宴を催そうかと考えておられるようです」
ふと邑姜が思い出して言った。
「何? 宴とな。贅沢な」
「小規模なものですけどね。あなたの為ですよ、太公望さん。武王はあなたが帰ってこられて喜んでらっしゃるのです。お相手してやってくださいね」
そう言い残すと、邑姜は忙しそうに去って行った。
取り残された太公望はぼんやりと天井を見上げる。
「わしの為、か……ふはは、そうか」
くっくっと、笑いが抑えられない。
何とも、嬉しい事だった。
「――で、あいつはそのままここから出て行った、と」
姫発は不満を全面に唸った。
一枚の紙切れ残し、人の考えた宴を足蹴にして太公望は一人去って行ったのだった。
「あのやろう~っ! なんか様子が変だなぁとは思っていたが……! このタイミングでいなくなるなんて! 宴の準備は万端だと言うのに!」
ギリギリと拳を鳴らしながら、姫発は怒る。
その隣で周公旦が短くため息を吐いた。
「はぁ、流石あの人ですね。意味がわからない。……小兄様、太公望の様子が変だったとは?」
「ん、ああ。あいつ、さっき突然部屋に来たんだよ。かと思ったら、うだうだと説教垂れて行きやがって」
それを聞いていた邑姜は、思わず噴出してしまう。
「太公望さんが? 説教? 一体何の?」
「まさか、政治に関することではありませんよね」
思う事は同じだったのか、周公旦もおかしそうにしていた。
しかし、予想に反して、姫発は二人に背を向ける。
「………そういうことじゃねぇよ」
それは、ふてくされた様な声だった。
邑姜と周公旦は思わず顔を合わせてしまう。
「小兄様、太公望は何と?」
「その……よくわかんねぇけど」
がしがしと頭をかきながら、姫発はその場に座り込んだ。
「――なんか、『家族は大事にしろ』ってさ」
「え……」
姫発の言葉に、邑姜は声を上げた。
「そんなこと、わかってるってのに……なぁ、旦」
「え、ええ……そうですね……」
「でも、あいつにしては随分くどかった。しつこいくらいだったよ」
「………」
困ったように周公旦が邑姜を見た。
姫発が背を向けてしまったのは、そういうことだったのだ。
「………」
邑姜は黙ったまま、太公望が残していった手紙を手に取った。
それは姫発の体調を懸念している内容だったが、同時に邑姜の事をも言っていた。
「ふふ……いやですね。あの人は、本当に」
優しいのか、厳しいのか。
強いのか、弱いのか。
わからない人だ。
「……本当に、あの――呂望という方は」
部屋の端へ足を向け、邑姜は空を見上げる。
今こそ青々としたこの色が、これまでの歴史全てを見ていたのだと思うとむずがゆい気がした。
だがそれよりも。
あの空にこの身を溶かして、自分が知らない全ての出来事を見れたらよかったのに、と――
――邑姜は願った。
『……どうしてものう。気にかかる事があっての』
『あやつは……――妹は、わしが仙人界に入った事を知っておったのかのう』
『……それとも、わしも父や母と共に、死んだと思っておったのだろうか』
『――いいや……いずれにせよ、わしは嬉しいよ』
『おぬしという、血を分けた家族に出会えたのだから』