HungrySpider
網に掛かっていた一匹の蝶の翅は、片方が奇妙な形に歪んでいた。
漆黒の下地に瑠璃帯のグラデーションと純白の紋がシンメトリーに入った模様は文句無く美しく、思わず言葉を失うほどの華麗な装いだったが、左側の翅の上部は無理やり引き千切られたかのごとく醜く拉げていた。それが無ければ完璧なまでの容姿を誇っていたのだろうにと酷く残念に思った。
傷口の様子から見て、罠に掛かった際に受傷した風には見えなかったので、恐らくは生まれつきか、孵化する時に失敗したのか、何か曰く付きの理由があるのだろう。それを差し置いても、彼は整った外見を持つ蝶たちの中でも一際綺麗な顔立ちと白い肌、そしてそれに引き立つ漆黒の髪を持っていて、一瞬本気で見惚れた位だったが、人生を諦めたような憂いに満ちた表情がまた彼の容貌を一段と艶美に際立てているのかも知れないと思った。
本当に、食べてしまうのが勿体無いくらいに美しい。そう感じさせるだけの魅力が蝶にはあった。
「大人しいあるね。怖くは無いあるか」
「…………」
罠の主である蜘蛛はするすると糸を伝い、網に絡まって動けなくなっている蝶の傍に近付いていった。すると彼は粘着性の糸に雁字搦めになっている手首を引っ張って、僅かながらに抵抗する素振りを見せた。ゆったりとした着物の袖口が乱れ、細い腕が肩の方までするりと現れる。余り陽射しを浴びる事を好まないのか、細腕は抜けるように真っ白だった。
「……この翅ですから、上手く跳べなくて、うっかり引っ掛かってしまいました」
逃げる事が叶わないと己の命運を悟ると、彼は自嘲気味にふっと微笑って、瞼を伏せた流し目で自らの肩口を見遣った。
「食べるのでしたら、この醜い翅も残さず、責任を持って召し上がってください」
頬に掛かる長い黒髪が淫らだった。こいつの醸し出す不幸の香りは、どんなに極上の血肉よりも甘く馨しい芳香を放っている。
「何故、醜いと思うあるか?」
こいつは自分の姿を鏡の前で見たことがあるのだろうか。確かに翅の片側は奇形だが、それを補って余り有るまでの美麗な華を持っているというのに、何故ここまで卑屈に、自虐的になるのだろう。
「お前は充分美しいあるよ」
翅を持たない自分からしてみれば、重力に逆らって空を舞う手段があれば、例えそれが不完全であっても羨ましかった。獲物を突き刺すしか能の無いこの爪に変わって、ひらひらと優雅な翅があれば見える世界も随分違ってくるだろうにと叶わない憧憬を抱く。
「まぁ、安心するよろし。我が髪の毛一本も残さず喰ってやるね。……でも今は腹が減ってねぇから」
蝶の四肢に巻きついた己の糸をぶつり、と牙で断ちながら、蜘蛛は感慨深そうに呟いた。
「空腹になるまで、我の傍にいるあるよ」
初めはほんの気紛れだったのだ。蝶を手元に置こうと思ったのは。
その時は言葉通り、空腹を覚えたらすぐにでも喰ってやろうと思っていた。バリバリと一欠けらの翅も、一本の髪の毛も残さずに。白い肌を流れる深紅の血を啜り、美しい顔が苦痛と恐怖と絶望に歪む姿を想像したら、それだけでもゾクゾクと胸の奥が興奮を覚えた。
そう。腹が減ったら。
それまでは精々、美しい姿でもじっくり眺めて眼を楽しませて貰おう。どうせすぐに飢えはやってくるのだから。
しかしそう思い続けて数日が経った今でも、蜘蛛は蝶に手を付けることなかった。
縄張りの中にある木の空洞を利用して、蜘蛛は蝶のためにあろうことか繭の形に似たねぐらまで拵えてやったのだ。昼間の明るい間はそこで眠らせて、周囲が夜闇に落ちた頃になると目を覚ました蝶は蜘蛛の周囲をひらひらと舞い、夜目に肥えた彼の瞳を楽しませた。
そうやって森の奥にある巣の一帯で、捕食者と被食者の奇妙な共同生活を送っていた。
「やおさんは、いつになったら私を食べてくださるのですか?」
「ん?」
今日も蝶は美しい漆黒と瑠璃色の翅を震わせて、憂いに満ちた上目遣いで、蜘蛛の纏う夜色の衣を控えめに引っ張ってきた。
「何故、早く食べてはくださらないのです?」
「仕方ねーあるよ、腹が減らねぇんだから」
これは本当だった。蝶が傍にいるだけで蜘蛛の心は満たされて、肉体まで麻痺してしまったらしい。あれから碌な食事を摂っていないにも拘らず、蜘蛛は全く飢餓を覚えていなかった。もしかしたら自覚していないだけで腹は空いているかもしれないけれど、どうしても蝶を食べる気にはなれないのだ。とことん気が済むまで、ずっと蝶の美しい翅を眺めていたいと思った。
しかし蝶は蜘蛛の言う事を信じようとしない。大人しい性分の彼にしては珍しく、一歩も引かない頑固な口調で食って掛かってきた。
「嘘です。あれから一週間近くも経っているのに」
きっぱり言い切って、黒目がちの瞳にじわりと涙を溢れさせている。もしかしたらこいつは、自分が知らない所でこっそりと蜘蛛が別の餌を捕って食事をしているとでも思っているのだろうか。それは蜘蛛にとって酷く不本意な勘違いだった。
(我はお前が傍にいるだけで満足あるのに)
むっとして剣呑と眉を顰めた蜘蛛を見た蝶は、ビクッと肩を震わせて黒衣の隅っこを掴んでいた指先を引いた。次いでしゅん、と元気を無くして落ち込んだようにすっかり肩を落としてしまった。
(……あいや)
その仕草を見た蜘蛛は、咄嗟にうっ、と喉を詰まらせた。反則だと思った。そんな顔をされたら、こちらが一方的に悪者にされた気分になるではないか。蜘蛛は眉間を絞ったまま、唇をへの字に曲げるという、とても情けない顔をして溜め息を吐いた。
「我から言わせて貰えば、喰われたがるお前の方が不思議でならねぇあるよ」
しみじみと長く呼気を吐き出して、蜘蛛は頭を抱えこむ。
こちらとしても、何故彼がこんな風に捕食されたがっているかを理解できずにいた。普通だったら殺されてその身を食われるなんておぞましい以外の何物でもないだろう。少なくとも、自分だったら絶対に嫌だ。絶対に最後まで諦めずに抵抗して、隙あらば即刻逃げ出そうとするに違いない。本心からそう実感する蜘蛛にとっては、泣いて命乞いをするならともかく、泣きそうな顔をして「早く食べて下さい」と急かされるのはどうにも附に落ちなかった。
「……初めてでした」
蜘蛛の問いかけに応えるべく、蝶はぼそりと口を開く。
「ん?」
「貴方は、初めて私の翅を美しいと言って下さいました」
……世辞だったとしても、とても嬉しかったです、と。
力なく項垂れていた面持ちを上げて、蝶は必死の眼差しで蜘蛛を見上げてくる。
「だから私は、貴方に食べて頂こうと決めました」
「……随分、勝手あるな」
不用意に発した自分の何気ない言葉が、蝶の心の琴線に触れてしまったのなら、あんな言葉言わなければ良かったと蜘蛛はほとほと後悔した。
苦々しい顔付きに変化した蜘蛛を見て、蝶は恐る恐る尋ねてくる。
「私、そんなに不味そうですか?」
裾を捲って細い腕を出しながら、蝶は不安そうに揺れた瞳で縋るように蜘蛛を見上げてきた。
やめてくれ、と思った。その綺麗な肢体を眼前に晒したりなんかしないで欲しい。
漆黒の下地に瑠璃帯のグラデーションと純白の紋がシンメトリーに入った模様は文句無く美しく、思わず言葉を失うほどの華麗な装いだったが、左側の翅の上部は無理やり引き千切られたかのごとく醜く拉げていた。それが無ければ完璧なまでの容姿を誇っていたのだろうにと酷く残念に思った。
傷口の様子から見て、罠に掛かった際に受傷した風には見えなかったので、恐らくは生まれつきか、孵化する時に失敗したのか、何か曰く付きの理由があるのだろう。それを差し置いても、彼は整った外見を持つ蝶たちの中でも一際綺麗な顔立ちと白い肌、そしてそれに引き立つ漆黒の髪を持っていて、一瞬本気で見惚れた位だったが、人生を諦めたような憂いに満ちた表情がまた彼の容貌を一段と艶美に際立てているのかも知れないと思った。
本当に、食べてしまうのが勿体無いくらいに美しい。そう感じさせるだけの魅力が蝶にはあった。
「大人しいあるね。怖くは無いあるか」
「…………」
罠の主である蜘蛛はするすると糸を伝い、網に絡まって動けなくなっている蝶の傍に近付いていった。すると彼は粘着性の糸に雁字搦めになっている手首を引っ張って、僅かながらに抵抗する素振りを見せた。ゆったりとした着物の袖口が乱れ、細い腕が肩の方までするりと現れる。余り陽射しを浴びる事を好まないのか、細腕は抜けるように真っ白だった。
「……この翅ですから、上手く跳べなくて、うっかり引っ掛かってしまいました」
逃げる事が叶わないと己の命運を悟ると、彼は自嘲気味にふっと微笑って、瞼を伏せた流し目で自らの肩口を見遣った。
「食べるのでしたら、この醜い翅も残さず、責任を持って召し上がってください」
頬に掛かる長い黒髪が淫らだった。こいつの醸し出す不幸の香りは、どんなに極上の血肉よりも甘く馨しい芳香を放っている。
「何故、醜いと思うあるか?」
こいつは自分の姿を鏡の前で見たことがあるのだろうか。確かに翅の片側は奇形だが、それを補って余り有るまでの美麗な華を持っているというのに、何故ここまで卑屈に、自虐的になるのだろう。
「お前は充分美しいあるよ」
翅を持たない自分からしてみれば、重力に逆らって空を舞う手段があれば、例えそれが不完全であっても羨ましかった。獲物を突き刺すしか能の無いこの爪に変わって、ひらひらと優雅な翅があれば見える世界も随分違ってくるだろうにと叶わない憧憬を抱く。
「まぁ、安心するよろし。我が髪の毛一本も残さず喰ってやるね。……でも今は腹が減ってねぇから」
蝶の四肢に巻きついた己の糸をぶつり、と牙で断ちながら、蜘蛛は感慨深そうに呟いた。
「空腹になるまで、我の傍にいるあるよ」
初めはほんの気紛れだったのだ。蝶を手元に置こうと思ったのは。
その時は言葉通り、空腹を覚えたらすぐにでも喰ってやろうと思っていた。バリバリと一欠けらの翅も、一本の髪の毛も残さずに。白い肌を流れる深紅の血を啜り、美しい顔が苦痛と恐怖と絶望に歪む姿を想像したら、それだけでもゾクゾクと胸の奥が興奮を覚えた。
そう。腹が減ったら。
それまでは精々、美しい姿でもじっくり眺めて眼を楽しませて貰おう。どうせすぐに飢えはやってくるのだから。
しかしそう思い続けて数日が経った今でも、蜘蛛は蝶に手を付けることなかった。
縄張りの中にある木の空洞を利用して、蜘蛛は蝶のためにあろうことか繭の形に似たねぐらまで拵えてやったのだ。昼間の明るい間はそこで眠らせて、周囲が夜闇に落ちた頃になると目を覚ました蝶は蜘蛛の周囲をひらひらと舞い、夜目に肥えた彼の瞳を楽しませた。
そうやって森の奥にある巣の一帯で、捕食者と被食者の奇妙な共同生活を送っていた。
「やおさんは、いつになったら私を食べてくださるのですか?」
「ん?」
今日も蝶は美しい漆黒と瑠璃色の翅を震わせて、憂いに満ちた上目遣いで、蜘蛛の纏う夜色の衣を控えめに引っ張ってきた。
「何故、早く食べてはくださらないのです?」
「仕方ねーあるよ、腹が減らねぇんだから」
これは本当だった。蝶が傍にいるだけで蜘蛛の心は満たされて、肉体まで麻痺してしまったらしい。あれから碌な食事を摂っていないにも拘らず、蜘蛛は全く飢餓を覚えていなかった。もしかしたら自覚していないだけで腹は空いているかもしれないけれど、どうしても蝶を食べる気にはなれないのだ。とことん気が済むまで、ずっと蝶の美しい翅を眺めていたいと思った。
しかし蝶は蜘蛛の言う事を信じようとしない。大人しい性分の彼にしては珍しく、一歩も引かない頑固な口調で食って掛かってきた。
「嘘です。あれから一週間近くも経っているのに」
きっぱり言い切って、黒目がちの瞳にじわりと涙を溢れさせている。もしかしたらこいつは、自分が知らない所でこっそりと蜘蛛が別の餌を捕って食事をしているとでも思っているのだろうか。それは蜘蛛にとって酷く不本意な勘違いだった。
(我はお前が傍にいるだけで満足あるのに)
むっとして剣呑と眉を顰めた蜘蛛を見た蝶は、ビクッと肩を震わせて黒衣の隅っこを掴んでいた指先を引いた。次いでしゅん、と元気を無くして落ち込んだようにすっかり肩を落としてしまった。
(……あいや)
その仕草を見た蜘蛛は、咄嗟にうっ、と喉を詰まらせた。反則だと思った。そんな顔をされたら、こちらが一方的に悪者にされた気分になるではないか。蜘蛛は眉間を絞ったまま、唇をへの字に曲げるという、とても情けない顔をして溜め息を吐いた。
「我から言わせて貰えば、喰われたがるお前の方が不思議でならねぇあるよ」
しみじみと長く呼気を吐き出して、蜘蛛は頭を抱えこむ。
こちらとしても、何故彼がこんな風に捕食されたがっているかを理解できずにいた。普通だったら殺されてその身を食われるなんておぞましい以外の何物でもないだろう。少なくとも、自分だったら絶対に嫌だ。絶対に最後まで諦めずに抵抗して、隙あらば即刻逃げ出そうとするに違いない。本心からそう実感する蜘蛛にとっては、泣いて命乞いをするならともかく、泣きそうな顔をして「早く食べて下さい」と急かされるのはどうにも附に落ちなかった。
「……初めてでした」
蜘蛛の問いかけに応えるべく、蝶はぼそりと口を開く。
「ん?」
「貴方は、初めて私の翅を美しいと言って下さいました」
……世辞だったとしても、とても嬉しかったです、と。
力なく項垂れていた面持ちを上げて、蝶は必死の眼差しで蜘蛛を見上げてくる。
「だから私は、貴方に食べて頂こうと決めました」
「……随分、勝手あるな」
不用意に発した自分の何気ない言葉が、蝶の心の琴線に触れてしまったのなら、あんな言葉言わなければ良かったと蜘蛛はほとほと後悔した。
苦々しい顔付きに変化した蜘蛛を見て、蝶は恐る恐る尋ねてくる。
「私、そんなに不味そうですか?」
裾を捲って細い腕を出しながら、蝶は不安そうに揺れた瞳で縋るように蜘蛛を見上げてきた。
やめてくれ、と思った。その綺麗な肢体を眼前に晒したりなんかしないで欲しい。
作品名:HungrySpider 作家名:鈴木イチ