HungrySpider
美味そうか、不味そうかと聞かれたら、彼は間違いなく極上の美味を持つであろうと思っていた。肉付きは多少薄いけれど、柔らかそうな肌に牙を立てた瞬間に溢れ出る鮮血は、どんな花の蜜よりも甘いだろうという予感があった。目の前の蝶は、本来の自分だったら間違いなく垂涎物の贅沢な御馳走なのだ。
だけど、どうしても食べる気が起こらないのだから、仕方が無い。
「……風邪引くから、しまっとくよろし」
ぶっきらぼうに呟いて、蜘蛛は捲り揚げられた蝶の白い腕を衣の内に隠した。馨しい肉の香りに誘われて、他の捕食者が性懲りも無く自分の縄張りに迷い込んでくる可能性もあるのだ。この森一帯を支配下に置いている蜘蛛だったが、どんな礼儀知らずのやつがいるかもしれないので油断ならなかった。
「やおさんっ!」
何度訴えても取り合ってくれない蜘蛛に焦れて、蝶は思わず声を荒げていた。
「やおさんはご自分で気付かれていないのですか?」
「ん?」
「やおさんのお体、どんどん痩せていっています。お腹だってほら、こんなにぺったんこで……」
他者との接触を拒む蝶にしては珍しく、自分から身体に触れてきたことに蜘蛛は面食らう。
そこまで必死に自分の身体を心配をしてくれているのかと思うと胸が熱くなった。思わず抱き締めてしまいたい衝動に駆られて、蜘蛛はぐっと拳を握り締める。
「お願いです、私を食べて下さい。このままだったらあなたは餓死してしまいます……!」
悲鳴のように叫んで、蝶は漆黒と瑠璃の美しい翅を振り乱す。
本来ならば食欲が最優先される肉食昆虫にとって、食事を摂らない事は本能の低下に繋がった。確かに今の自分に食欲は無い。だけど、食べたいという欲求を容易く越えるほどの激情が、この胸に宿っているのだ。
(お前を食べるくらいならば)
この命が尽きた方が、何倍もマシあるよ。
口に出せばまた蝶に煩く付きまとわれるだけだと知っていたので、蜘蛛は己の心の中だけでひっそりと呟いた。
世間から忌み嫌われているおぞましい肉食昆虫よりも、見た者の目を癒してくれる美しい蝶の方が、どれだけ存在価値があるか。
それに、本当に腹が減らないのだ。何日も食事をしていないにも拘らず、身体は以前よりも調子が良いくらいだった。自分でも驚くほど気分が高揚していた。
現に今も、蝶の幼い膨れっ面を見ているだけで、どんな好物を口にしている時よりも幸せな気持ちになれた。
「もう少し腹が減ったら、ちゃんと喰ってやるあるから。そう喚くんじゃねぇある」
心にもない約束を口にして、蜘蛛は微苦笑する。いつも哀しそうな顔をしている蝶だから、たまには笑った顔が見てみたいと思った。どうしたら彼は笑顔になってくれるだろうか。そんな風に思いながら白い頬に向かって手を伸ばそうとしたが、しかし蝶は誤魔化されたと憤慨したらしく、蜘蛛の手を乱暴に払いのけて、ひどく悔しそうに唇を噛み締めながら何も言わずに飛び去ってしまった。
いつまで経ってもねぐらの中から出てこない蝶を不審に思い、こっそりと繭の中を覗きに行くと、彼は向こう側を向いたまま横向きになって寝そべり、丸くなって眠っていた。不貞寝に見せかけた狸寝入りのつもりなのかと思ったが、どうやら本気で熟睡しているらしく、すうすうと健やかな寝息を聞こえてきた。このねぐらをよほど気に入っているのか、緩く閉じた翅は穏やかな呼吸に合わせてふわふわと気持ちよさそうにそよいてでる。
穏やかに揺れる翅に誘われるように、蜘蛛は足音を殺してすーっと近付き、蝶の横に腰掛けた。
顔を覗き込んでみると、幼い寝顔はすっかり安心しきっている様子を醸していた。時折鼻がぴくぴくと動くのが面白い。
(ったく、気を許しすぎじゃねぇあるか?)
仮にも命を狙われている捕食者の前で、こんなに暢気に転寝していて良いものなのか。蜘蛛はすっかり呆れ返ってしまった。
頬に掛かっている黒髪を指で掬い、邪魔にならないように横に払ってやる。
「……ん」
髪を擽られてこそばゆかったのか、蝶は薄く唇を上げて、小さな寝言を漏らした。
(こいつは、変な奴あるな)
指通りの良い黒髪を梳いて遊びながら、蜘蛛はクスクスと笑みを零す。
翅の形は確かに歪んでいるけれど、こんなに綺麗な心を持った蝶を蜘蛛は今までに見た事が無かった。
蝶なんて皆、傲慢で、高飛車で、容姿の美しさだけが取り柄の、心の貧しい、卑しい種族に過ぎないと思っていた。蝶が罠に掛かると、蜘蛛はまっさきにその美しい翅を毟ってやるのだ。命よりも大切な象徴を無残にも奪うことで絶望を与え、大人しくなったところを貪り喰らい付く。とても清々するし、楽な仕事でもあった。
それなのにこの蝶は、他の蝶たちと異なり、自分の事を本気で醜いと思い込んでいた。確かに彼は引き攣れた片翅を持っていたが、それを抜きにしても他の蝶たちと比べて遜色無いほど、むしろ他の誰よりも美しい容姿を持っているくせに、何故そんなに自虐的になるのだろう。もしかしたら、彼の美貴に嫉妬した仲間達が、お前は醜いのだと虚言を言い続けて、彼に劣等の意識を植えつけたのだろうか。もしそうだとしても、他者との軋轢に耐え切れずに傷付いてしまうその繊細な魂を、蜘蛛は心の底から愛しいと思えた。
(この子の翅の美しさが、一日だって一秒だって、長くありますように……)
この子がこの世から消える日が、一日だって一秒だって、早まったりしませんように。
眠る蝶の瞼に、蜘蛛はそっと口付ける。
多分、自分はこいつに恋をしているのだと思った。
好きになってしまったのだ。この自分の美しさをちっとも理解していない、気弱で控えめで、それなのに変な所で物凄く頑固で、この世の何よりも尊い瑠璃色の翅を持つ蝶の事を。
心の底から。
(ずっとずっと、我の傍にいるよろし)
お前を食べたりなんかしないあるよ。だからその命が尽きるまで、ずっとずっと傍にいて、ひらひらと華麗に舞いながら、我の心をいつまでも癒しておくれ。
隣にいるだけで、こんなにも温かい気持ちになれるお前のことを。
「愛してるあるよ、きく……」
作品名:HungrySpider 作家名:鈴木イチ