HungrySpider
あれほど望んでいた満面の笑みを目の当たりにしているのに、全然嬉しくない。むしろ背筋が凍りつきそうになるくらいの不快感だった。
「……きく……?」
こいつは、早まったのだ。
蜘蛛は咄嗟にそう感じた。
自分の愛した美しいの翅は、心臓から直に流れ出たどす黒い血で無残な暗褐色に染まっていた。漆黒から瑠璃色に変化する鮮やかなグラデーションも、純白の斑紋も消えて、禍々しい紅一色に染まっている。そんな姿になった彼でも美しいと思うのだから、自分は心底この蝶の事を愛しているのだ。それなのに。
「……っ」
蜘蛛はボロボロと涙を零しながら、頬に触れる蝶の指先を取り、そこに付着した血をペロリと舐め取った。意識混濁した状態でも舌にはっきり解かるほど、甘く濃い、極上の獲物の味。蜘蛛は堪えきれずに蝶を抱き締める。
「美味しいあるよ、菊」
恐らく、今、彼が一番聞きたがっている言葉。蜘蛛の心境としては吐き気がするほど厭わしい一言だったが、必死に私情を押し殺して、呟いた。
思った通り。
それを聴いた蝶は幸せそうな笑みをより一層深めて、無垢な眼差しで愛しい蜘蛛をうっとりと見上げた。
「……よか……た……」
微かに唇から漏れた、その一紡ぎの吐息が最後だった。
肺の中の残り少ない呼気を精一杯震わせて、小さな小さな声を吐露した唇の端から、つうっと一筋の鮮血が溢れ落ちていく。
強張っていた肢体から、ゆっくりと力が抜けていく。
すうっと閉ざされた瞳。幸せそうに微笑んだ唇。
冷えていく指先に反して、いつまでも溢れ続ける血潮は腕に温かかった。
もう二度と返ってこない声。二度と開かない瞳。生きている時よりも余程幸せそうなその表情に、後悔の類いは一切見られない。
蝶は蜘蛛を残していくことをこれっぽっちも罪悪として捕らえていないのだ。それが蜘蛛にとっては一番悔しかった。
「っ……!」
伝わることの無かった想いが悲痛な悲鳴をあげている。
蝶は死んでしまった。いつまでも答えを出さずに曖昧なことばかり告げていた自分に愛想を尽かし、さっさと自分で自分の希望通りの道を選んでしまった。なんて酷い奴なんだと非難の気持ちで涙が止まらなくなる。悔しい悔しいと全身が叫んでいるような息が漏れ、きつく歯を噛み締めた。
こいつは自分の気持ちを知っていながら、その上でお前を愛している我に自分を看取らせるというのか。なんて酷い奴なんだ。どこまで残酷な奴なんだ……!
「……ぅっ」
蜘蛛は渾身の力でぐったりと弛緩している蝶の身体を抱き締めた。まだ微かに温かい頬に自分の頬を擦り付ける。自分の熱を与えればもしかしたら戻ってきてくれるかもしれないと思ったが、蜘蛛の期待を裏切り、彼の身体は一刻を追うごとに氷のような冷たさに変化していった。
「…………き、く」
蜘蛛は最後の涙を絞り落とし、ゆっくりと顔を持ち上げる。
動かなくなってしまった蝶の胸に唇を寄せ、蜘蛛は大きく口を開けて鋭く尖った牙を剥いた。
愛する彼のために自分がしてやれることは、もうたった一つしか残されていなかった。
(たべるあるよ……きく……。おまえを)
食欲なんてまるで無かったけれど、このままこの美しい肢体が朽ちてしまうのをただ待つだけは耐えられなかった。
彼が自分に託した唯一の願い。
自分の腹の中に収まりたいという、たった一つの願い事。
彼の希望を叶えてあげたいと思うのに、顎を開けたまま硬直していた口からは、見っとも無い嗚咽のみがぽろぽろと零れ落ちていく。滴下した涙と混じった血でどす黒い色が曖昧になり、白い肌を滑り落ちていった。
こんな汚い食べ方をされて、彼は怒るだろうか。それとも、格好悪いですねと可笑しそうに笑うだろうか。
蝶の性格を考えると、きっと後者の反応だと思えた。
そう思うとガチガチに強張っていた顎骨が、ふっと解けるように抜けていった。
ぷつり、と皮膚を食い破った牙が、柔らかな肉にずぶずぶと食い込んでいく。
(美味しいあるよ……きく……)
蜘蛛は愛しい蝶が聞いた最後の言葉と同じ感想を再び心に浮かべ、ぼろぼろに泣きながら、甘く切ない血を啜り、コクンと喉元を小さく嚥下させた。
作品名:HungrySpider 作家名:鈴木イチ