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HungrySpider

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 無遠慮に差し込んだ舌先で口蓋を舐め、歯茎を辿り、前歯をこじ開けて奥に竦んでいた舌を吸いだす。そうやって強引に絡め取れば、彼は苦しそうに「んん……っ」と呻き、蜘蛛の黒衣の裾をぎゅっと握り締めた。
 甘い唾液に頭がクラクラする。久しぶりの獲物の味。蜘蛛は我を忘れて蝶の唇を貪った。
 永い口付けを名残惜しく終え、唾液の糸を引いてそっと唇を離すと、蜘蛛は再び蝶の背中を抱き締める。
「……何故、我がお前を喰わないか、わかったあるか?」
「っ……!」
 今度こそはっきり我に返った蝶は、全身の力を振り絞って蜘蛛の胸を突き飛ばした。
 蝶は自らが乱した着物の合わせ目を手繰り寄せ、二人分の唾液で濡れた唇をぐい、と拭う。漆黒の瞳には大粒の涙が溢れ、ぽろぽろと真珠のように球になって零れ落ちていた。
「……わ……かり……ま、せん」
 震える唇から、途切れ途切れになったか弱い声が聞こえる。不明瞭な言葉に蜘蛛がもう一度尋ねようとすると、蝶は次は声帯を傷付けかねないほど加減を失った声量で、血を吐くように鋭い悲鳴を上げた。
「そんなの、わかりません!」
 悲痛な叫び声を言い捨てて、蝶は逃げるように蜘蛛の元から飛び去っていった。
 華奢な背中が小さくなっていくのを忌々しく思い、途中で目を逸らした蜘蛛は、ぐったりと頭を抱え込んで重い溜息を吐きだした。
 彼は想いが通じない事に焦燥し、悔しそうに歯軋りしていた。潤んだ瞳で哀しそうにしていた。こんな詰まらない討論で時間を無駄にするのは心底腹立たしい。もういっそ素直に言ってしまおうか。自分はもう、お前を食べるつもりなんて甚だ無いのだと。
 我はお前を愛しているのだ。死んでも喰ってやるものかと思った。
(きく……?)
 蜘蛛はふっと顔を上げて周囲を見渡した。そういえば彼はどこに行ったのだろう。外敵に襲われたばかりで同じ間違いを犯すほど愚鈍では無い筈だから、臍を曲げた彼の行き先はねぐらである繭の中以外に間違いはないとは思うけれど。
 また以前のように不貞寝でもしているのだろうか。
(…………)
 ふと蜘蛛の脳裏を掠めた悪い予感があって、彼の時間は止まった。思考が通り過ぎた後、動かない四肢を叱咤して糸を伝い歩く。まさか、と思っていた。
 まさか。まさか。
 頼むから不穏な予感なんて見当はずれの勘違いであって欲しい。悪い思考を思い浮かべてしまうのは自分の悪い癖だと自嘲したい。そう強く願いながら、逸る心臓を抑えて繭の中を覗きこんでみた刹那。
 蜘蛛の悪い予感は、残酷なまでに最悪の現実となって眼前に広がっていた。
「っ……!」
 蜘蛛が目の当たりにしたのは、毒針の刃で自らの胸を貫き、血まみれになって倒れている蝶の姿だった。
 目の前が一気に暗くなる。
 これは何だ……悪い夢か何かか。それとも手の込んだ趣味の悪い悪戯か。あんなに大量の血糊なんてどこで用意したのだ……。毒針なんて……いつの間に準備したのだろう。もしかしたら、つい先刻、他の蜘蛛に襲われた時に使って放置していた刃をこっそり持ち帰ったのだろうか。何てことだ……よりにもよって己の刃で、蝶が傷付いてしまった。
 慌てて駆け寄った蜘蛛は、震える腕で華奢な身体を抱き上げる。
 触った瞬間に解かった。胸の傷は相当に深い。刃は微塵の揺らぎも無く、一直線に心の臓に達している。
 この子はもう、きっと長くない。助けてあげることが出来ない。
「お前……何を……何をしているあるか!」
「……やお、さん……」
 鮮血に濡れた指先を震わせて、蝶は蜘蛛の頬に触れた。
「たべて……わたしを……」
 吐息よりも細い呼気で、蝶は呟く。胸部の激痛を懸命に堪えて、弱々しいながらも頬に微笑を宿らせた。
 短い生涯の中で起こった過去の思い出を、彼は走馬灯のように脳裏に蘇らせていた。
 生まれた時からずっと、不恰好に歪んだ翅のせいで仲間達に醜いと罵られ、蔑まれ、排斥され続けてきた。そんな自分にとって、蜘蛛は生まれて初めて「存在」を認めてくれた相手だった。
 彼は、不完全な自分の翅を初めて「美しい」と言ってくれた。
 例えそれが餌を得るための詭弁だったとしても、その一言に蝶は救われたのだ。今までずっと見出せずにいた「自分の生きる価値」を与えたくれたのは、自らの命を奪う恐ろしい捕食者の彼だった。
(私の生きた意味は、あなたに捕食されることによって、ようやく価値を見出せるのです)
 だから絶対に彼に食べて欲しいと思った。
(わたしは、あなたに恩返しがしたいのです……)
 それなのに、初めて心を癒してくれた恩人が、このまま痩せていってしまうのをただ見ているだけなのは、どうしても我慢ならなかった。
 彼が自分に好意を持ってくれているのは知っていた。恐らく、大切に思ってくれているがゆえに自分を食すことが出来ないのだということも。
 その気持ちはとても嬉しかったけれど、しかしこのまま食事をしなかったら、彼は確実に死んでしまうのだ。自分のせいで彼が餓死してしまう。そんなこと、絶対に許せるはずはない。
 理由は簡単だった。
 自分も愛してしまったのだ。彼の事を。
 恩人というレベルを越えて、存在として、彼の事を愛していた。
 人当たりはぶっきらぼうで刺々しくて、鋭利な爪と牙を持つ恐ろしい外見の蜘蛛だったけれど、その内に秘めた心は残酷なほどに優しくて、どこまでも甘やかしてくれる温かい腕を持っていた。
 いつか、喧嘩別れをしてねぐらの中で狸寝入りをしている時に、髪を優しく梳きながら「愛してる」と言ってくれた事があった。そのときは本当に嬉しくて、胸が熱くなって、あの後、すぐ彼がねぐらを出て行かなければ、嘘寝をしているのがバレても彼の前でみっともなく泣き出してしまったと思う。
 こんな自分を、劣等と自虐の塊でしか無かった醜い自分を、彼は本気で愛してくれた。
 傍にいて欲しいといってくれた。
 それだけで、蝶にとっては過分すぎるほどの幸福だった。
 だからこそ、自分に出来る精一杯の持て成しで、彼を救ってあげたかった。
 蜘蛛が自分を手にかけることが出来ないのならば、自分でやるしかないと思った。
 それから、もう一つ。彼はこの自分の姿を……翅に醜い欠陥のある自分を、本気で美しいと言ってくれた。だから老いてこれ以上醜くなる前に、少しでも若い内に食べてもらって、この容姿を忘れられない思い出として、永遠に記憶のうちに留めて欲しかった。
 ごめんなさい。わたしがあなたに出来る事は、このくらいしかないのです。
 ここまでお膳立てすれば、もう充分でしょう?
 わたしのねがいを、かなえてくださるでしょう……?
 わたしのことを、好いていてくださっているのなら、おねがいです。
 どうか食べて下さい。
 あなたの血肉の一部になれるのならば、きくは幸せです。
 やおさん。
(わたしは、あなたを、ずっとお慕いしておりました……)
 そう心の中で告げた蝶の口元は、子供のような無邪気さで嬉しそうに笑っていた。その表情は恍惚とさえしていた。その陶酔ぶりは殉教者の見せる誇りと自尊心を達成した満ち足りた風貌に似ているかもしれなかった。
 蜘蛛は初めて、蝶の笑顔を見たと思った。
作品名:HungrySpider 作家名:鈴木イチ