森の中
木々の葉の間から、午後の柔らかな日差しがこぼれている。
身の上にまだらの光を浴びながら、さくさくと雲雀は緑の中を歩いている。
膝辺りまでの野草が、過剰でなく生えるそこは、白樺の林だ。草の間に細く伸びる、曲がりくねった小道を、雲雀は奥へ奥へと歩いてゆく。
まばらに、しかし先が見通せないほどには並んでいた木立が不意に開けた。
溢れる光の中に、雲雀は目的の人を見つけた。
キャバッローネの屋敷を訪ねるために、雲雀が家を出たのは正午過ぎだった。
暑くなく寒くなく、とても心地のいい天気で、イタリアに渡ってきたときから、雲雀はこういう日、キャバッローネの書斎で読書をすると決めている。あの家の書斎は、午後に心地のいい陽が入る間取りで、窓辺には雲雀が寝転がるのに具合のいいソファがある。
もちろんそれは雲雀が勝手に決めたことで、キャバッローネの人間に許可を取ったことはない。
ただ、キャバッローネの主は、雲雀がそうして訪ねてくることを咎めはしない。
庭先に通う猫を撫でるように、過剰でなく雲雀の頭を撫でて、「よう、久しぶりだな」と笑うだけだ。主がそんな調子なので、家のものも何も言わない。同じように、「よう、久しぶりだな」とか、「熱心だな」とか言って、笑うだけだ。
今日も、雲雀はまるで我が家のようにキャバッローネの屋敷を訪れ、挨拶もなしに書斎へ向かった。読みかけのダンヌンツィオが雲雀を待っている。
重厚な書斎の扉を開くと、雲雀の好きな、インクと古紙と、陽に焼けた埃の匂いが出迎えてくれた。
壁一面の書架から、目的の一冊を抜き出して、窓辺のソファに寝そべる。
銀のブックマークをするりと抜いて、ハードカバーの古い本を開く瞬間が、こうした午後の至福である。
静かな午後。
書斎には、片隅に置かれた小さな振り子時計の、こつこついう秒針の音、雲雀がめくるページの、紙が擦れる音のみが、優しく流れている。
一章分を読み終えたところで、雲雀はふと、家主の声を聞かないな、と、文字の海から顔を上げた。
普段なら、雲雀がこれくらいのページを消化するかしないかの頃に、苦すぎないエスプレッソと少しのビスコッティーノを盆に載せて、書斎を覗きにやってくるのに。
うつぶせに転がっていたソファから体を起こして、雲雀は本に銀のブックマークを挟んだ。きらりと午後の光を反射する、きれいな銀のブックマークは、家主が子供の頃、誰だかに貰ったものだそうだ。
ある日、本の間から滑り落ちてきたそれを、雲雀はとても気に入っている。美しいカーヴを描く、銀色のエッジだとか、くるりと渦を巻いた登頂の造形だとか、その先についている、控えめな花のモティーフなどをだ。
午後の書斎は、雲雀の好きなもので溢れている。
宝物を仕舞うようにして本を閉じた後、雲雀は書斎から外に出た。
出たところで、丁度廊下を歩いてくるロマーリオと鉢合わせた。彼は、手に盆を持っていて、盆には、エスプレッソと少しのビスコッティーノが載っていた。
「よう、どうした」
雲雀の姿を見て、ロマーリオは少し驚いた顔をした。普段なら、雲雀は外が暗くなって、窓からの光だけでは文字が追えなくなるまで、もしくは、誰かが書斎を覗いて、おいそろそろやめろよ、目が悪くなるぞ、と声を掛けるまで、この部屋から出てこないからだ。
「あのひとは、今日はいないの」
差し出された盆を受け取って、雲雀はイタリアンローストの深い香りをかぎながら訊いた。ロマーリオは、雲雀が盆を取り落とさないように(もちろんこの青年が、そんな無様を晒さないことは分かっている。これは彼が長年仕えた男の性質から来る、一種癖のようなものだ)慎重に手渡して、「いや、いるぜ」と答えた。
「久しぶりに午後が空いたからな。シエスタだ」
シエスタ、と、雲雀はあまり聞かない単語を反芻した。
「昼寝さ」
そんなことは知っている、と雲雀は鼻の頭に皺を寄せる。ロマーリオは、家主が青年にするように、黒い髪をひとつ優しく撫でて、「裏の庭だよ」と教えてくれた。
ロマーリオが立ち去るのを見送って、雲雀は今出てきたばかりの書斎に戻った。
いつもと同じ、苦すぎないエスプレッソに、添えられたビスコッティーノを浸して食べながら、窓の外、ロマーリオが言った裏の庭の方へ目を向ける。
庭と彼は言ったが、そこは緑の生い茂る木立だ。キャバッローネの屋敷は、門から邸宅までの前庭と、コの字になった建物の真ん中にある中庭は、芝のしきつめられた美しい庭園だが、裏は林だ。その奥は森で、屋敷の背後には、山がそびえている。
窓の外、木立の上を黒い鳥の姿が横切った。
雲雀は食べかけのビスコッティーノを皿に戻し、残り僅かだったエスプレッソを飲み干して、席を立った。
木立の開けたそこは、まるで草原のようだった。四方がどう贔屓目に見ても十五メートルと、極端に狭いことを除けば、そういうしかない。花が咲いていれば、花畑ということもできただろうが、生えているのは雑草だ。しかし林の中に生えていたような背の高いものではなく、どれもせいぜい雲雀のくるぶしくらいまでと低い。もう秋だというのに、日の光を全面に浴びた雑草たちは、春か初夏のような萌黄色に輝いている。
草原の端のほうに、広々と枝を広げた大きな樹が生えている。
雲雀の探し人は、その下で古ぼけたベンチに寝そべって惰眠をむさぼっていた。
枝葉の間から零れ落ちる陽が、彼の上にまだらに落ちて、ゆらゆらと揺れている。
葉を透けて降り注ぐ光は、恵みのような緑色をしていて、薄い色素で構成されているまどろみのひとは、今にも光の中に溶けてしまいそうだった。
眠っているこのひとを見るたびに、何度でも思うことを雲雀はまた心の中で呟く。
(綺麗だ)
面と向かって評するようなことでもないし、あまり口に出したこともないが、雲雀はこのひとを美しいと思っている。それも、ちょっと類を見ない美しさだ。
(目を閉じているときが、この人は一番綺麗だ。でも、この人の中で一番美しいのは、金髪でも造形の極地をいくような肉体でもない。たっぷりはちみつを溶かし込んだ、甘くて飲めたもんじゃないレモネードみたいな、瞳の色だ)
雲雀はなるべく音を立てずにベンチに歩み寄ると、寝そべる男の傍にそっとかがみこむ。
閉じられた瞼と、とりまく金色の睫毛。目を閉じていると、その長さがよくわかる。陽の光と同じ色をしているから、普段はあまり気にならない。けれどこうして眠ってしまうと、頬に落ちる影が改めてその長さを強調するのだ。
しみひとつ、吹き出物のひとつもないなめらかな、つくりものみたいな肌。そっと指の背で撫でると、子供のような産毛すら生えているようだった。これでも二日放っておけば髭が生えてくる男の顔だ。
(不思議だな。こんなに綺麗なのに、中身は荒くれの男たちと一緒なんだ)
本人が聞いたら、「一体俺をなんだと思ってるんだ」と呆れてしまいそうな感想だが、雲雀の本心だった。
この人の持つ美しさは、人の域を越している。
詰まっているのは他と同じ、血と臓物と汚物だというのに。
頬を滑る指先に呼ばれたのか、ふるり、と睫毛がひとつ揺れて、閉じていた目が開かれる。
落ちてくる木漏れ日を嫌うように二三度瞬きをして、金色の目はようやく傍にしゃがむ雲雀の姿を捉えた。