水煙をくゆらせる
その姿を見たのは図書室からだった。
連日振り続ける雨は雨脚を弱めることもせず、ただひたすら乾いた空間に水嵩を増していた。雨が続いたところで鬱になるような繊細さなど持ち合わせているつもりはないが、それにしても面倒だと秀吉は溜息を吐く。
窓に面して立つ秀吉の背後からは、夢の世界へ旅立って久しい幼馴染が長机にうつ伏せてすぴすぴと阿呆みたいな寝息を立てていた。まったくお気楽な奴だと窓に映る姿を呆れたように眺め、しかし口元には苦笑が浮かぶ。秀吉の中に確固として存在する、例外のような存在だ。
取り出した煙草に火を点け、深く吸い込む。ジリジリと葉の焼ける音に目を細め、少し上向いて紫煙を吐き出した。室内が仄かに煙る。それはすぐに掻き消えてしまったが、秀吉は束の間眉を寄せた後億劫そうに窓を開けた。別段この学校の教師は生徒の喫煙に対して見ない振りを決め込んでいるのか煩く言ったりはしないが、空調設備の整ったこの部屋をヤニ臭くするのはいただけない。
窓を開け放った途端耳を打つのは冷房の轟々と空気を揺るがすような音ではなく、俄然勢いを増した雨音に取って代わった。未だ昼前だというのに外は薄暗く、重たい湿気を含んだ空気が無遠慮に室内に押し入ってくる。不快だ、と秀吉は思った。
冷気には程遠い生温い風に髪を撫で下ろされ、苛々とそれらをかき上げると、視界に見知った男が似合わない花柄の傘を差して歩いて来るのが見えた。
速くも遅くもない速度で怠そうに歩いて来る様からは、秀吉の求める鬱屈を晴らすような清廉さは微塵も感じられなかったが、ともすれば虚ろだと捉えられそうな双眸は沈みそうな天候より余程重苦しい空気を纏わり付かせていた。女の元から直接来たのかそうでないのか知らないが、花柄の傘だけが妙に浮ついて軽薄で秀吉は喉を鳴らして嘲った。
ともあれ、目の前に気分を晴らすとまでは行かないまでも十分に気を散らしてくれるだろう存在がのこのこ顔を出して、それを見送ってやるだけの親切さを秀吉は持ち合わせてはいなかった、特に鬱々と歩いてくる男に対しては。
「コメ」
それほど大声を出したつもりはなかったが、男は、米崎はピタリと歩みを止めると、二階に位置する部屋を振り仰いだ。睨み上げたと言ったほうが適切かもしれない眼光で。
米崎の双眸からは瞬く間に温度が消え去った。秀吉は無言でその様に見入る。あの日から、秀吉に対してのみ器用に温もりというものを払拭するその瞳は反して秀吉を愉しませた。
易からぬ劣情が背筋を駆け上っていく。
ああまただ、と思った。
米崎を前にするとき、以前からは思いも及ばないほどの衝動が秀吉の脳髄を揺さぶる。先行する情動は理性を押しやり、獣じみた支配欲が顔を出すのを他人事のように感じた。
秀吉が見下ろす先で米崎は秀吉の内心を見透かしたわけでもないだろうが、すと顔を背ける。
再び歩き出した男の背が秀吉の何もかもを否定したがっているようで、秀吉は滲み出る笑いを抑えることもせずゆっくりと煙草を一本吸い切った。
雨の日だろうと何だろうと、男がここへ来てまず向かう先など知れていた。
*
降り頻る雨の中、ぐったりと米崎の身体が横たわる。忙しなく上下する胸郭はしばしば身体の痛みに引き攣れた。
秀吉が急ぐでもなく追いかけた背中は予想通り屋上へと続く扉の淵に凭れかかっていた。
振り返らずに、冷めた声音でお前のイカレ具合は相当だと嘲った男の胸倉を力任せに引き寄せ殴りつけた。吹っ飛んで雨の中を転がった身体を追い、起き上がりかけたところに蹴りを入れ、後は幾度暴力を振るったかもう余り覚えていない。
―そう、暴力だ。純粋な喧嘩ではすでに覆りようのない勝敗は喫している。そんな相手に自ら手を出すなど全く持って流儀に反するが、秀吉は冷め切った力を収めることはしなかった。出来ないとは言わないが、する気がないとは言えた。
散々に乱れた黒髪の奥から鋭い視線が秀吉を睨め付ける。ざわりと震えが走る。この目の所為だと、秀吉はたいした確信もなく決め付けた。
相変わらず温度のない眼光は、今や憎しみさえ篭っているようだ。その先に待つ行為を、眼光だけで押し止められるはずがないということを嫌というほど知っているだろうに、その双眸は依然強さを失わない。じりじりと煙草の葉が焼ける音が胸郭の裏側から聞こえた気がした。
秀吉がその身体をコンクリートに押し付けるようにして跨ると、初めて冷静さで取り繕ったような米崎の顔に焦りの片鱗が覗いた。くつくつと喉が震える。中途半端に力の入った腕が振られたのを難なく捕えて押さえつけると死ねと罵声が飛んだ。もう片方の手が到底足りない力で秀吉を押し返すのを愉快そうに眺めて、秀吉はまた嗤った。
シャツの釦に手を掛ける。ひとつずつ、穴を潜らすごとに露わになる肌。秀吉によって手酷く暴かれた身体は随所に澱んだ痕跡を残していて痛々しい。それは身体のあちこちで熱を持ち、雨に打たれる中で一種異様な光景だった。その一つに触れると、跨いだ身体が跳ね、嫌そうに身じろいだ。視線を上げた先で、水浸しのコンクリートの上に黒髪が散っている。秀吉は一時それに気を取られた。その僅かな隙を狙ったように米崎が腕を振り上げ、それなりの威力があったのか秀吉の口端から血が一筋流れる。親指でそれを拭うと、秀吉は軽い動作で米崎の頬を殴り飛ばした。ぐっと呻いて今度こそ完全に力の抜けた身体を尻目に、秀吉は組み敷いた身体に手の平を滑らせた。
体の内側を性質の悪い熱が苛み続けていた。それは秀吉の中にそれなりの誠実さで存在する理性や自制という言葉を遥かに凌いで、本能的な劣情に拍車を掛ける。なぜここまでするのか、などという問いは、秀吉自身とうに答えを探すことを放棄していた。たいした答えなど出なかったからだ。分かっていることといえば、米崎の双眸が諦めの色を過らせながらも、ここに至って未だ眼光を衰えさせないということにひどく苛虐心を煽られるということだった。その瞳を目の当たりにするたび、この惨憺たる有様を是正する微かな余地すらどこかへ消え去った。
打ちつける雨の帳がただ二人を日常から隔絶している。肌に絡んだシャツを剥ぎ取り素肌を晒させ、そうしてまっさらな熱に歯を立てる。ひくりと跳ねて竦む身体は秀吉をひどく満足させた。
米崎の身体は抵抗を繰り返す意思とは逆に、数度繰り返されてきた行為からさっさと快楽を得る術を身に着けた。どうしたって昂ぶっていく身体を持て余して唇を噛み締める様は秀吉を容易く煽る。目尻を赤く染め、苦しげに喘いで顔を背ける。普段の男からは想像を絶する姿態はどこまでも秀吉の欲をそそり、熱に浮かされた双眸が快楽に屈していく様子は秀吉を愉しませた。
行為が進めば限界も近づく。
米崎の指先がコンクリートを引っ掻いているのを視界の隅に捉える。幾度行為を繰り返そうと、その腕が秀吉に伸ばされることは終ぞなかった。それが米崎の最後の砦なのかもしれない。
秀吉は米崎が呻くのを無視して無理に身体を近づけ、目元に走る傷跡を舌で嬲った。ひくりと身体が跳ねきつく絡み付いてきた中に眉を寄せると、秀吉は米崎の弱いところを攻め立てた。細い悲鳴が上がる。行く筋も頬を伝う生理的な雫は雨と混ざりすぐに見分けが付かなくなった。