くだらない話
くだらない話
其れは、日本国東京都新宿区西新宿のとあるマンションの一室。其処には一組の男女が居る。一組の男女と云っても、甘ったるい雰囲気は微塵も無く、寧ろ殺伐。お互いに興味を持っておらず、ただ只管各々のやりたいこと、するべきことをして、日々、過ごしている。
其れは当たり前のことで、何故なら二人は恋人でも何でもなく、雇用者と被雇用者の関係。女は色々な諸々を経て男の下で事務仕事をしている。其れは男が提案したことだ。
女は別に此の男の下で働きたくはなかったのだが、追われる身となってしまった自分には、男の提案が己の都合に良かったので、斯うして今の状況に甘んじている。
一方、男は男で女が欲しかった訳ではない。別に此れまでも独りでやって来ていたし、正直自分の仕事に於いてマネジメントも完璧に出来ている。けれど、女の持っているものが欲しかった。だから、女に自分の秘書になるように提案をした。
お互いの利害の一致。其れによって、男と女は一つの閉鎖空間で同じ空気を同じように吸っている。けれど、同じように椅子に座り、同じようにコーヒーからカフェインを摂取しているのに、二人は全く別のことをしている。
女は黙ってPCにデータを打ち込んでおり、男は子供向けの教育番組を胡散臭さを漂わせながら楽しんでいた。
珍しく、女は集中を乱されている。
テレビの音と時々声を上げて笑う男の声が酷く気に障った。けれど、其れだけではない。女は、男が本当は笑ってなどいなくて腹の中ではどす黒いものをぼこぼこと煮え繰り返しているのを、肌で感じ取っていた。此の閉鎖空間に充填された空気にじわりじわりと拡散して来る男の其れは、難無く女の集中を乱した。
……うるさいわね。女は男の笑い声とテレビの音、そして男の醸し出す静かで激しい怒りに対して胸の裡で抗議する。何時もなら、そんなことはない。
男は普段から嘘か真かどちらにも判断付け難い調子で色々なことをぺらぺらとよく喋った。其れを女は、「噫、またか」と聞き流している。けれど、何故か今日は其れが出来ない。今朝は夢見が良くなかった、朝から何となく落ち着かないから、其れは仕方ないのこと。女はそう自身を、そして今の状況を割り切ろうとしたが、やはり無理だった。
「……あなた、随分御機嫌ね」
たっぷりの皮肉を込めて、女はつい男に声をかけてしまった。声をかけてから、「しまった」と思ったが、今更後には退けない。如何せなら、此の際突っ走ってしまえと、女は更に声をかける。
「性も懲りずに、また彼にちょっかい出してきたのかしら。包帯、似合ってるわ」
そう云うと、女は男の腕にある包帯をじっと見つめた。すると男は、見ていた画面から目を外し、ちらりと女の方を見ると、「今日はやけにお喋りだねぇ」と云い、今度はニュース番組を見始める。ははっ、と笑ってはいたが眼は笑っていなかった。其れを見留め、一瞬女はどきりとしたが、其れは、此の男に関してはわりと何時ものことなので、気にしない。
女は、殺意を孕ませている時の男の眼を知っている。先程の会話の「彼」こと、平和島静雄の話をする時の男の眼は、凍てつくような冷たさを、其れでいて燃えるような揺らめきを放つ。そう云う時の男を見る度に、「下手なことしたら、刺されそう」と女は思うのだった。だから今しがた男が見せた、笑っていない眼など、女にしてみれば些細なことでしかない。女は小さく溜息を吐くと、傍らに置いていたコーヒーカップに口を付けた。
そんな小さな溜息を、男はニュースを読み上げるキャスターの声と共に聞く。其れから、あぁ、珍しいこともあるものだ、と思った。
男は、女が酷く苛ついているのに薄々気が付いていた。
普段から、男は女のことを「愛想の良くない女だ」と思っていたが、今日は殊更愛想が無い。池袋から帰って来て、男は今日初めて女に会ったのだが、顔を見てすぐに自分同様女が何かに苛ついているのを感じた。其れを証明するかのように、仕事をきちんとこなしてはいるが明らかに溜息が多く、手が止まる。其れは、何時も流れるように響くキーを叩く音が、断続的になることから明らかだった。そして、向こうから自分に話し掛けて来る。
女が男に話しかけて来ることは滅多に無かった。大抵は男が、自分の思っていることや仕事に関する事務的なこと、時には独り言のようなことを女に一方的に話しかけていた。時々、女も男に話しかけて来ることはあるが、大抵は事務的な内容で、あとは挨拶や女の弟に関することだった。
だから、男は確信した、女が明らかに何時もと違うことを。そして、其のアイロニックな内容と声の調子に、女が苛ついているということを。
だからと云って、男は女を気遣う気など更々なかった。其処でそんなことが出来れば、紳士的であるということも分かってはいる。けれど、男は人類愛を唱えるという変わった自己中心的な性格の持ち主であったので、如何して自分が八つ当たりをされなければいけないのか、とより一層腹を立てた。
何時も通り池袋で平和島静雄とやり合って、また少しへまをして、軽いけれども怪我をさせられて頭にきている男に、八つ当たりをして来る女を気遣うことなど、此の世が引っ繰り返っても不可能な事象。
其のようであるから、男は皮肉のお返しとばかりに、ニュースの内容に対して大きく独り言を喚くことにした。
「あーあーあー。最近の子供ってのは何なんだろうねぇ……」
テレビでは中学生が自殺したニュースをやっている。
「虐めを苦に自殺だなんてさぁ、そんなのやり返してやりゃいいじゃん。其れに親も親だよねぇ、学校なんてものはさ、行かなくたって如何にでもなるんだから」
勉強なんて学校じゃなくても何処でも出来んのに……。男がそう云うと、「皆が皆、あなたみたいな人間ではないということよ」と女が云う。其れに、男は可笑しそうに、浅はか過ぎるんだよ、と嗤う。
「たかが十四才だ。十四才の癖に人生に疲れただのなんだのって……。学校なんて云う小さくて狭いコミュニティで何を見たって云うんだ、世界には虐め以上に汚くて酷いことが溢れてるって云うのに。自殺なんて駄目駄目、ナンセンスっ! 現実逃避に救いなんてないんだからさ」
……胸が痛むよ。男がそう付け足すと、女が「あなた随分熱心ね」と云う。其れに「俺は人間を愛してるからね」と男が返すと、女がくつくつと嗤う。
「……愛してるねぇ。人を欺いて利用して踏み躙ってるあなたが、『胸が痛む』ですって? 其れを愉しんでるあなたが? 『人間を愛してる』だなんて全くだらないわね」
女はそう云い、男の眼を見てから口を歪めるような笑みを浮かべた。
「そんなの、君だってそうだろう、波江」
男は自分に言葉の刃を向けて来る女に心底腹を立てる。先に嫌がらせとして大きな独り言を云い出したのは自分だということはすっかり忘れた。
其れは、日本国東京都新宿区西新宿のとあるマンションの一室。其処には一組の男女が居る。一組の男女と云っても、甘ったるい雰囲気は微塵も無く、寧ろ殺伐。お互いに興味を持っておらず、ただ只管各々のやりたいこと、するべきことをして、日々、過ごしている。
其れは当たり前のことで、何故なら二人は恋人でも何でもなく、雇用者と被雇用者の関係。女は色々な諸々を経て男の下で事務仕事をしている。其れは男が提案したことだ。
女は別に此の男の下で働きたくはなかったのだが、追われる身となってしまった自分には、男の提案が己の都合に良かったので、斯うして今の状況に甘んじている。
一方、男は男で女が欲しかった訳ではない。別に此れまでも独りでやって来ていたし、正直自分の仕事に於いてマネジメントも完璧に出来ている。けれど、女の持っているものが欲しかった。だから、女に自分の秘書になるように提案をした。
お互いの利害の一致。其れによって、男と女は一つの閉鎖空間で同じ空気を同じように吸っている。けれど、同じように椅子に座り、同じようにコーヒーからカフェインを摂取しているのに、二人は全く別のことをしている。
女は黙ってPCにデータを打ち込んでおり、男は子供向けの教育番組を胡散臭さを漂わせながら楽しんでいた。
珍しく、女は集中を乱されている。
テレビの音と時々声を上げて笑う男の声が酷く気に障った。けれど、其れだけではない。女は、男が本当は笑ってなどいなくて腹の中ではどす黒いものをぼこぼこと煮え繰り返しているのを、肌で感じ取っていた。此の閉鎖空間に充填された空気にじわりじわりと拡散して来る男の其れは、難無く女の集中を乱した。
……うるさいわね。女は男の笑い声とテレビの音、そして男の醸し出す静かで激しい怒りに対して胸の裡で抗議する。何時もなら、そんなことはない。
男は普段から嘘か真かどちらにも判断付け難い調子で色々なことをぺらぺらとよく喋った。其れを女は、「噫、またか」と聞き流している。けれど、何故か今日は其れが出来ない。今朝は夢見が良くなかった、朝から何となく落ち着かないから、其れは仕方ないのこと。女はそう自身を、そして今の状況を割り切ろうとしたが、やはり無理だった。
「……あなた、随分御機嫌ね」
たっぷりの皮肉を込めて、女はつい男に声をかけてしまった。声をかけてから、「しまった」と思ったが、今更後には退けない。如何せなら、此の際突っ走ってしまえと、女は更に声をかける。
「性も懲りずに、また彼にちょっかい出してきたのかしら。包帯、似合ってるわ」
そう云うと、女は男の腕にある包帯をじっと見つめた。すると男は、見ていた画面から目を外し、ちらりと女の方を見ると、「今日はやけにお喋りだねぇ」と云い、今度はニュース番組を見始める。ははっ、と笑ってはいたが眼は笑っていなかった。其れを見留め、一瞬女はどきりとしたが、其れは、此の男に関してはわりと何時ものことなので、気にしない。
女は、殺意を孕ませている時の男の眼を知っている。先程の会話の「彼」こと、平和島静雄の話をする時の男の眼は、凍てつくような冷たさを、其れでいて燃えるような揺らめきを放つ。そう云う時の男を見る度に、「下手なことしたら、刺されそう」と女は思うのだった。だから今しがた男が見せた、笑っていない眼など、女にしてみれば些細なことでしかない。女は小さく溜息を吐くと、傍らに置いていたコーヒーカップに口を付けた。
そんな小さな溜息を、男はニュースを読み上げるキャスターの声と共に聞く。其れから、あぁ、珍しいこともあるものだ、と思った。
男は、女が酷く苛ついているのに薄々気が付いていた。
普段から、男は女のことを「愛想の良くない女だ」と思っていたが、今日は殊更愛想が無い。池袋から帰って来て、男は今日初めて女に会ったのだが、顔を見てすぐに自分同様女が何かに苛ついているのを感じた。其れを証明するかのように、仕事をきちんとこなしてはいるが明らかに溜息が多く、手が止まる。其れは、何時も流れるように響くキーを叩く音が、断続的になることから明らかだった。そして、向こうから自分に話し掛けて来る。
女が男に話しかけて来ることは滅多に無かった。大抵は男が、自分の思っていることや仕事に関する事務的なこと、時には独り言のようなことを女に一方的に話しかけていた。時々、女も男に話しかけて来ることはあるが、大抵は事務的な内容で、あとは挨拶や女の弟に関することだった。
だから、男は確信した、女が明らかに何時もと違うことを。そして、其のアイロニックな内容と声の調子に、女が苛ついているということを。
だからと云って、男は女を気遣う気など更々なかった。其処でそんなことが出来れば、紳士的であるということも分かってはいる。けれど、男は人類愛を唱えるという変わった自己中心的な性格の持ち主であったので、如何して自分が八つ当たりをされなければいけないのか、とより一層腹を立てた。
何時も通り池袋で平和島静雄とやり合って、また少しへまをして、軽いけれども怪我をさせられて頭にきている男に、八つ当たりをして来る女を気遣うことなど、此の世が引っ繰り返っても不可能な事象。
其のようであるから、男は皮肉のお返しとばかりに、ニュースの内容に対して大きく独り言を喚くことにした。
「あーあーあー。最近の子供ってのは何なんだろうねぇ……」
テレビでは中学生が自殺したニュースをやっている。
「虐めを苦に自殺だなんてさぁ、そんなのやり返してやりゃいいじゃん。其れに親も親だよねぇ、学校なんてものはさ、行かなくたって如何にでもなるんだから」
勉強なんて学校じゃなくても何処でも出来んのに……。男がそう云うと、「皆が皆、あなたみたいな人間ではないということよ」と女が云う。其れに、男は可笑しそうに、浅はか過ぎるんだよ、と嗤う。
「たかが十四才だ。十四才の癖に人生に疲れただのなんだのって……。学校なんて云う小さくて狭いコミュニティで何を見たって云うんだ、世界には虐め以上に汚くて酷いことが溢れてるって云うのに。自殺なんて駄目駄目、ナンセンスっ! 現実逃避に救いなんてないんだからさ」
……胸が痛むよ。男がそう付け足すと、女が「あなた随分熱心ね」と云う。其れに「俺は人間を愛してるからね」と男が返すと、女がくつくつと嗤う。
「……愛してるねぇ。人を欺いて利用して踏み躙ってるあなたが、『胸が痛む』ですって? 其れを愉しんでるあなたが? 『人間を愛してる』だなんて全くだらないわね」
女はそう云い、男の眼を見てから口を歪めるような笑みを浮かべた。
「そんなの、君だってそうだろう、波江」
男は自分に言葉の刃を向けて来る女に心底腹を立てる。先に嫌がらせとして大きな独り言を云い出したのは自分だということはすっかり忘れた。