藤色の鬼
「え? だって、土蔵じゃろう。土蔵は人が寝起きする所ではない。大体、枢木の屋敷には部屋だってたくさん余っているのにそなたは何を好き好んでこのような所で暮らしておるのじゃ」
スザクでもあるまいし、普通はこんな暗くて黴臭くてじめじめした場所を好む人間はいない筈だ。しかも二人は一国の皇族である。土蔵で暮らすことなど、普通ではありえない。二人がそれを特別に望んだというのなら別だが……そう混乱する神楽屋に対して、ルルーシュは皮肉げに唇の端を吊り上げた。
「別に僕たちが望んでそうしたわけじゃない。これが枢木の……いや、お前たち京都六家が僕たちに相応しいと思う住まいなんだろう」
そこに含まれるのは、諦めと苛立ち。今の日本とブリタニアの関係を考えれば仕方のない待遇だと知っていて、それでも大切な妹にこんな暮らしを我慢させていることが辛くて。ルルーシュは力の無い自分と……過去の自分への自嘲の念を抱き続けていた。
「そんな筈がなかろう! そなたらは皇族なのじゃ。ならば賓客としてもてなすが道理じゃ」
けれど、ブリタニアとの緊張状態も知らず箱庭の中で育つ神楽耶には、ルルーシュたちがこのような扱いを受けていることが納得出来ない。
「……僕たちは賓客なんかじゃない、ただの厄介者さ」
何も知らぬ様子の神楽耶に、ルルーシュは複雑な感情を抱く。
無邪気に、自分の立場や環境について深く考える必要もなく幸せでいられた時間は、彼にはあまりにも遠い。庶民出の母親を持つが故に彼らを蔑む者たちに負けぬようにと、一部の人間の前以外ではいつも彼は皇子としてのルルーシュを演じていた。それが無駄な経験ではないとは知っているが、それでもただの子供でいたくなかったといえば嘘になる。
しかしルルーシュは、それを受け入れて納得することが出来ていた。彼には守りたいものがあったから。けれどナナリーは本来ならば目の前の少女と同じように、汚い世界など知らずに無邪気でいられた筈なのだ。こんな風に、何も知らずにただ真っ直ぐな目をしていられた。
やりきれない感情に、彼は強く手を握り締める。
「手当てはいいから、もう帰れ。だいいち、こんなところまでほいほい付いてくるなんて……お前は自分が皇の総領姫だと言いながら己の立場の自覚もなにもないのか? お前一人の所在が分からなくなっただけで、どれだけの人間が動かされる。どれだけの労力が使われる」
「そんな、そんなことはない! 確かに神楽耶はうかつな所もあるかもしれぬが、皇の名に恥じぬようになりたいと……思い始めてはおる」
その切欠となったのがルルーシュであるとは言えず、神楽耶は俯く。
「言っておくが、人から言われたとかそういうことではなく……神楽耶は神楽耶として皇に相応しい姫になりたいと思っておるのじゃ」
感情のままに紡がれる言葉。こんな風にまとまりのないことを言っては、また馬鹿にされるだろうと神楽耶は眉を寄せ唇を噛んだ。
「…… お前が皇として生きるというなら、尚更僕には近付かないことだ。桐原翁がどんな意図で僕たちとお前を会わせたのかは知らない。けれど、僕は【ブリタニア】でお前は【皇】だ。ブリタニアは、多くの国を次々に取り込んで今の繁栄を築いた。この国もやがて取り込まれるかもしれないぞ。そして僕は、そんな国の皇子だ。お前たちを喰らい尽くそうとする鬼ではないと、どうして言える」
神楽耶を見ているのに、神楽耶ではないものを見ているような瞳で、ルルーシュはそう言った。
「僕たちには近付くな。僕はナナリーだけがいればそれでいい。それ以外の人間なんて邪魔なだけだ」
今までで一番冷たい瞳と声に、神楽耶は口を開きかけたまま固まった。先程は少し近付けたと思ったルルーシュが、今はひどく遠い。
「ブリタニアに安易に関わろうとするな。お前が皇として生きるなら、ブリタニアは決して親しむ相手とはならない」
言い捨てて土蔵へと入っていったルルーシュを、神楽耶は追い掛けられなかった。
神楽耶はブリタニアのことを全く知らない。そして、日本のことも知らなかった。
友好の証として日本に留学しに来た筈の、ブリタニアの皇子と皇女。彼らがこんな扱いを受けていることも、きっと日本人から嫌われているのだろうことも何も知らない。ルルーシュの傷が転んだりして出来たものではないということくらい、神楽耶にも分かる。だったら彼に傷を付けた者がいるのだ。
彼女は日本とブリタニアは仲がいいのだと思っていた。けれどこの状況が……スザクの呟いた「ブリキ野郎」という言葉が、神楽耶に現実を教えていた。
ブリタニアが多くの国を侵略している国だということくらいは、彼女も知っている。しかしその対象に日本が入るだなんて欠片も思っていなかった。仲がいいのならば何も問題なんてないと、無邪気に信じていた。
「神楽耶は何も知らぬのじゃな」
少しずつ、【皇】に相応しくなっていこうと思っていた。皇の名に恥じない人間になりたかった。それは正しいことなのだろうけれど、今のままではそれすら困難だと気付く。
神楽耶は何も知らなかった。彼女に与えられる情報はあまりにも少なく、辛いものは決してその耳には届かない。そんな状況下で、どんな成長が望めるというのか。
「ならば、知ればよいのじゃろう」
六家が、周りの大人たちが、桐原が彼女に隠していたことを。
「知ればよいのじゃ……そうすれば……」
ルルーシュにも認められる。そう思った瞬間、神楽耶は自分がルルーシュにどうしようもなく執着していることに気付いた。ただ見返してやりたいとか初めて神楽耶の心を深く抉る言葉をぶつけてきた人間とかだからではなく、ルルーシュという人間に執着し始めている自分に。
「何故……神楽耶はこんな風に」
彼女の呟いた答えの出ない問いは、誰の耳にも届かないまま風に攫われて消えていった。