掌編 『鼓動』
手に握る心臓とはかけ離れた彼の低い体温に、ぞくりとする。普段は意識しない己の口腔の温度は、意外と高かったのだなと歯茎の裏を撫でる舌の冷たさにふと思った。
快感を引き出そうとする動きに、無意識に心臓を持つ右手に力が篭りかけるが、菊は何とかそれを耐えた。
(こ……の、糞餓鬼がっ)
「ふっ…ん……」
離れた温もりの名残を惜しむように己の唇を舐めたイヴァンは、不思議そうに首を傾げる。
「握り潰すんじゃなかったの?」
「……つい今しがた気付いたのですが、口付けの最中ですと私自身にもダメージがありそうで」
舌を噛まれたりしては美味しくご飯が食べられません。
顔を赤くしながらも淡々と、真顔で理由を告げる菊が愛おしくてぎゅっと抱きついたイヴァンは、これ以上邪魔をするなら心臓を熊の餌にでもすると怒られて大人しく手を離す。 それからしばらくの時間が経って、ようやく納得のいく場所にそれを収めた菊は満足げに微笑んだ。
「終わりましたよ」
(こういう、職人的なところも好きだなあ)
初めはイヴァンの願いを拒んでいたくせに、やるとなったら真剣に向き合って一番いい結果をと振舞う。そんな菊は素敵だと思う。
「何をにやついていらっしゃるのですか」
嬉しさを隠せないイヴァンの様子に、菊は不審人物を見るような眼差しを向ける。それを気にせず、イヴァンは彼に微笑んだ。
「何だか、温かいなって」
「臓物が温かいのは当然です」
つれない言葉も、今のイヴァンには心地良く聞こえた。
「そうかなあ。でもいつもよりずうっと温かく感じるんだよ。これって菊くんの温もりなのかな」
「……断じて同意しかねます」
苦虫を噛み潰すという形容がぴったりとくる表情で菊はハンカチを手に取ると、赤に濡れた指を拭う。そのまま捨てようとした菊の手を、イヴァンが制止する。
「なんですか?」
「ハンカチ、もらってもいい?」
べっとりと血に濡れたハンカチは、洗ったところでもう使い物にならないだろう。こんな状態のものをなぜ欲しがるのか分からず、菊は眉を寄せた。
「そうなってしまっては、役には立たないと思いますよ」
当然の内容にもイヴァンはにっこりと笑う。
「別に、使うわけじゃないから。菊くんとの思い出に持っておきたいんだ」
だからいいでしょう?と差し出された大きな掌に、溜息を吐いて菊はハンカチを落とした。
「好きになさってください。言っておきますが、染みているのは貴方の血なのだから呪いなどには使えませんよ」
呆れたように言って扉に手を掛けた菊だったが、足を一歩踏み出すと同時にイヴァンの方へと視線を投げる。
「ああ、それから、今度から私を呼びたいときはこんな非常識な方法はなさらくださいね。次はもう、拾ってさしあげるつもりはありませんので」
扉を閉めながら告げられた言葉に、残されたイヴァンは小さく息を吐いた。
「バレちゃってたか」
菊の通るだろう道に、わざと落とした彼の心臓。その企みは彼にはバレバレだったようだ。
でも、それを分かっていて届けてくれたことに嬉しくなる。
「何だかんだいって優しいよね」
とくり、とくり。手を胸にのせると伝わってくる規則正しい鼓動。
いつもはどこか空虚に感じるそこから、イヴァンは温もりを感じる。
「ありがとう、菊くん」
その温もりにたまらない幸福を抱いて、イヴァンはそっと瞳を閉じた。