漣
*
縺れる足にもどかしげに舌打つ。気ばかりが急いて、一向に距離が縮まってない気がした。笑えるほど必死になって、やっと紛れてしまうほどだった背中が視認できるくらい近付いた。角を曲がってすぐ追いついた背に、手を伸ばしてその肩をぐいと引いたその瞬間、目を見張った。
ひゅ、と鳴った喉が息を飲む。
「ッ!、…ルッ…チ…!」
その名前を呼べた自分に驚いた。シルクハットも常に共にいたハットリもいなかったが確かにその男だった。
呆然と瞬きし、次の瞬間には湧き上がる何かに突き動かされるようにその胸倉を掴んで壁に押し付けていた。押し付けて尚、混乱したままの頭では何をどう考えていいものか見当もつかなかった。シャツを握り締める手にばかり力が籠る。
そんな俺に何ら動じた様子もなく、ルッチは無表情に淡々と言い放った。
「酒臭ェ」
「…テメェ、なんで…」
怒る事も忘れていた。その存在に会ったら言ってやりたいことはたくさんあった筈なのに、いざその瞬間が目の前に突きつけられると、言葉が喉に詰まって出てこない。ほとんど錯乱状態の自分とは逆にルッチの双眸には何の感情も浮かんでいなかった。
二人の間に重苦しく錯綜した沈黙が落ちる中で、焦れたように月が姿を晒した。
闇に包まれていた路地にも互いの姿が浮かび上がる。酔いなんてものは吹き飛んでいたのに、間近にはっきりと目にした存在に不意に足から力が抜た。体が傾いでああ倒れる、そう思いながら視線は何年かぶりに見る男から剥がれず、離すまいとでも思ったのか自分ですらよく分からなかったが、握り締めたままの手に引かれてルッチの体も傾いた。
俺の手なんて、外す気になれば簡単にできただろうにしなかった男が可笑しかった。
*
微かな衝撃を伴って、気付けば目の前には地面があった。なのに倒れ込むとき覚悟した痛みは無い。そのことに首を傾げればそれもそのはず、俺の下にはルッチが仰向けに倒れていた。そのルッチを跨ぐように倒れる自分に愕然として、突き放すように上体を起こす。言葉を失って見下ろした先で、再び視線がルッチの静寂を湛える双眸に捕まった。
「相変わらず、馬鹿な男だ。」
それが追って来てしまったことに対するものだと瞬時に気付いた。依然掴んだままの指に力が入る。呆れたようにそんな言葉を吐いた男を心底卑怯だと思った。俺が追わずにはいられない人間だと百も承知で、白々しくも憐れんでみせる。仕方ねぇだろう、その姿を見て駆け出すのは最早五年間繰り返し続けた癖だった。いる筈のない人間を探してつい視線を彷徨わせていたのは初めだけだったが、ふと似た面影が過ぎるたびに性懲りもなく追いかけては、まったくの別人に自嘲して、それでも体は何かを考える前にいつでも逸早く動いた。しかし、今まさに目の前にある顔立ちは、自分が長い事思い描いていたそれとは少し違っていた。それもそうだ。あれから5年も経っている。変わらない方が逆におかしい。当たり前だが、自分が上手い折り合いの付け方も分からず未練がましくも何年も追い続けていたのは、あの頃のルッチだったのだ。背まで髪のある、奇妙な腹話術で話し不器用に愛を告げた、あのルッチだった。ずっと、そのいつでもすましていた顔を一発殴りたいと思っていた。それで全てに片が付くのだと。なのにどうしたことか、片が付くどころか拳一つ振上げられずにいる。俺を見上げる視線も交わした言葉ももうあの頃のものはあの一瞬に粉々に砕かれ霧散してそこに存在しないのに、こんなにも鮮明に思い出せる。錯覚しそうになる。来る日も来る日もあの面影を探しながら、それでももう乗り越えたと思っていた。それがただの思い違いだったのだと改めて思い知らされた。こんなにもまだ熱い。目頭とか触れた肌とか詰まったままの喉だとか。別人だと理解してるのに体は同じだと言い張る。思うことと行動がちぐはぐで矛盾しずぎて、もう何が何だか分からなかった。それでも溢れる感情は構わず後から後から湧き上がって、零れ落ちてしまいそうだ。
噛み締めた唇が見当違いの言葉を口走る前に、せめて離れなければと脳は喧しいほど我鳴っているのに、やっぱり体は言うことを聞かない。そろそろもう限界だ。だって気付いてしまった。余りにも惨めなその答え。俺は、この男を憎んでいないのだと。結局憎めなかったのだと。思うと同時に掴んだままの指先から力が抜けた。
「パウリー」
静かに声が掛かる。馴染みのない、直接掛けられる言葉。あの頃どれ程望んでも叶えられなかったそれ。同様の静かさでルッチの腕が持ち上がって頬に触れた。冷たい手だった。あの頃もその冷たさによく文句を言っていた。やめろ触るなと跳ね除けられたら、どれほどこの苦しみは和らいだことだろう。
ルッチが目許を撫でるように触れて初めて自分が泣いてるんだと認識した。認識したところで、止めどなく溢れ続けるそれを止める術なんて思いつかなかったけれど。
「俺は、…」
「……」
「ッ俺、は、…お前を、許せねェ…」
「……」
「けど、…ッにくめも、しねぇよ!」
視界がブレるのは、酒のせいだと思いたかった。いっそ丁寧なほどゆっくり撫でるその指が震えてるのになんか気付きたくもなかった。残酷な冷たさはただ、この一時を夢にすることも許さない。
自分でも馬鹿だと思った。あれだけ酷い裏切りに遭い(いや裏切りとすら言えるか分からない、それほど巧妙で鮮やかだった)、それでもまだこんなにも、愛している。五年の時間差で否応無しに突きつけられたものは認めることを余儀なくさせた。そもそも認めるまでもなかったのかもしれない。何度もルッチを追いかけながらそれでも見つけたのが別人であるのにどこかで安堵していたのは、無意識に自分で分かっていたからじゃないのか。だとしたら情けなさ過ぎる。
未だ自分に触れ続ける男を見下ろして思う。あの頃の全てが虚構でなかったことはもう理解していた。声音の柔らかさ、仕草の優しさ、俺を映す双眸に浮かんでいたものそれら全てが嘘だったわけじゃない。それでもういいと思った自分は女々しいのだろうかと苦く笑った。だがそれからあまり傷つく事もなくなったのは事実だった。色んなものが変わった中で、ほんの微かに変わらないものも在る。それを見つけて疼いた胸に一層惨めな気持ちにはなったけれど。
俯く俺の頬を撫でる男が恨めしい。俺を呼ぶ声が憎らしい。
「パウリー」
「…呼ぶな、」
「パウリー」
「呼ぶんじゃねえ」
鼓膜を振動させて響く声も胸を震わせる切なさも振り切って立ち上がる。
「お前を殴れもしねぇのに」
戻れなくなる、と掠れた声で言った言葉が聞こえただろうか。突如吹いた風が水面を荒立てるように吹き抜け、しかし少し経てばそれも収まる。そんな些細な影響を残した男のいない平穏な日常が、今はひどく懐かしい。立ち上がると同時に絡んだ熱を振り払えない。
ぐい、と引かれた腕に、抵抗を忘れた体はいとも容易くその腕の中へと導かれた。何もかもが遠ざかっていく。
とうの昔に諦めた香りに包まれて目を瞑ると、何かを押し殺した様な、この男にはひどく似合わない声音でもう一度、馬鹿な男だと言うのが聞こえた。