雨の日は
イヴァンはその前で足を止めたので、菊もそれにならう。
「本当だ、向日葵ですね」
花の気配はまだ遠いのだが、葉の形や大きさや生えている様子からして、おそらくはそうだろう。
「いつ咲くのかな」
その声がいつものトーンと比べてとても楽しそうで、思わず菊は上の顔を仰ぎ見た。
すみれ色の瞳は優しく細められていて、今度ばかりはその心のままの言葉のようだった。
その表情はどこか子供の頃の彼を思い起こさせて、菊はその顔をまじまじとみつめる。
「向日葵、楽しみですね」
菊が言うと、イヴァンは「うん」と頷いて再び歩き出す。
そういえば子供の頃、夏休みに近所の向日葵畑に連れて行った時、彼がとても喜んだのを思い出した。
「早く咲かないかな」
「もうすぐ咲きますよ」
隣を小学生くらいの女の子達が並んで歩いていく。
色とりどりの傘が美しいけれど、もうじき傘の花ではなく本当の向日葵の花が咲く夏がやってくるだろう。
「夏、早く来ないかな。…僕、雨の日って嫌いなんだよね」
その声はまるで駄々をこねる子供そのもので、その成長しすぎた身体ととても不釣りあいだったから、菊は軽く噴き出した。
その道の終わりで1つ曲がって、またしばらく道なりに歩く。小さな公園の前を通ったあと、そこを今度は左に曲がって直後に右に…曲がったのだが。
「あの…イヴァンさん?」
到着したのは、高い塀と立派な門構えの大きなお屋敷の前だった。
菊の家とは裏手にあたる、イヴァンの家だ。
なるほど、近道とは「イヴァンさんの家への」近道だった訳ですね、と菊が諦めの境地にも似た思いで妙に納得しているうちに、イヴァンはいつの間に掴んだ菊の肩を抱いて、そのまま大きな門の中へと入ろうとする。
「イヴァンさん?あの、私はこれで…」
「折角来たんだし、お茶くらい飲んでいきなよ。美味しいロシアンティーいれてあげる」
「い、いえ結構です、私は用事があるので」
菊は引きつるような笑みを浮かべたまま、肩の上の大きな手をどかそうとした。
しかしその力は忌々しいほどに強く、びくともしない。
「あの、本当に離して下さいませんか、ちょっと…!」
「用事っていったって、どうせアニメでしょ? 僕の家で見ればいいじゃない」
「貴方、そういって一度も最後までまともに見せてくれたことないでしょうが!」
できるだけ穏便にというのを諦め、何とかその場から逃げ出そうともがく菊の耳に、イヴァンはそっと囁いた。
「ねえ、例の限定版のフィギュアだっけ、本田君が欲しがってたやつ。そういえば、父さんの伝手で貰ったんだよね」
「!?」
「…本田君にあげてもいいよ」
それが止めの一撃だった。
菊は己の物欲の強さ加減に心で泣きながら、しかたないですね、とイヴァンの家の門をくぐる。
こうなれば、彼に見咎められないうちに、誰か録画してくれそうな知り合いにメールを送るしかない。
**
外の雨はまだ止む気配を見せず、相変わらずイヴァンの家の大きな窓ガラスに無数の水滴を残している。
菊はなんとかアニメを見始められたものの、結局途中でイヴァンに邪魔され、仕方なく彼とゲームをする事になった。
最新のゲーム機のコントローラーを手に、大きなソファに悠然と座る彼の横に遠慮がちに腰掛けながら、菊はふと幼いころのイヴァンが、雨になると決まって菊の家に入り浸っていたのを思い出した。
イヴァンの両親は共に忙しく、イヴァン家にはいつも彼と通いの家政婦さんしかいないのだ、というのは誰から聞いた話だったか。
”雨だから”
だから菊の家に来たのだと、尋ねて来た小さな姿を思い浮かべる。
(まったく、図体はやたら大きくなったのに、中身はまったくあの頃と変わらないんですね)
雨の日は寂しいよ。だから一緒にいてほしいんだ。
fin.