心臓にレッテル
「食べないの」
優しい声がした。葉を叩く小雨のように、緩やかな速度で落ちていく。
が、落下地点が少年の鼓膜という点で、それは雨との違いを見せていた。植物ならこんな時、何の躊躇いもなく水滴を受け入れ、喜び、己の中に取り込んでしまうのだろう。少年は思う、自分が植物で、この言葉が単純な水ならばどんなに良かったか、と。宙に留まっている時は過剰な程のやわらかさを漂わせていた男の言葉が、今はねっとりと膜を這い強烈な違和感を刻むのだ。のみ込もうとしても体内が拒絶し、理解力すら鈍らせ、ひたすら焦燥だけを駆り立てていく。
確かに優しいはずなのに、帝人はこれらを凶器のようだと喩えた。実際、言葉自体にそのような攻撃性は無いと解っていたが、肉を柔らかく抉る感覚が消えないのである。痛くはない、狂気じみてもいない。こんなにも正確に人の心を刺せるなら、もはやそれは狂気ではないだろう。明確な意志のもとで進められた行動でないなら他に何だと言うのだ。そう叫んでしまいたくなる程には確信のあるたとえだった。けれど今の少年に叫びを具現化する気力は皆無だ。きっと二つは紙一重で、彼の、折原臨也の中には、否、人間には皆、人としての正常な部分も、狂っている部分もあるに決まっている。もちろん、自分にも。解っている。把握したつもりで、いる。
帝人は一体何を聞かれているのかもよく理解出来ないまま、弾かれたように顔を上げていた。間もなく視線が交わり合う。青年は笑い、少年は驚く。悲しいほどに、異なった色を見せている。
「帝人君」
暫し経って、折原が口にした。相変わらず唄うような低音だった。上の空ではいと答えると、彼は笑うのを止めて微かに眉を下げてしまう。
「自分の家なんだからさ、少しリラックスしたらどうかな」
ただし語尾は笑っている。器用な真似をするのだなという思いと、妙な納得が胸中に広がった。先程まで頑なに侵入を拒んでいた鼓膜がふるりと震え、唇から出て行ったのは情けない、声にもならない声。喜びであるかどうかは定かではないが、ただ、半強制的なものだった。水を貰った、だから咲かなければならない、結果を残さなければならない、と、そのように思う花があるのなら、たぶんそんな感じだ――自分が花だなんて、考えたくもないけれど。
突き詰めて考えれば、喜びとは程遠いのだった。そのくせ思考から雲が剥がれていく。折原の言う通りに、心音はとく、とく、と一定のリズムを取り戻しつつあったし、混乱していた脳も潤うかのように落ち着きを取り戻している。今の労りを、綺麗なものとでも思い込んだのだろうか。確かめようと思った矢先、唐突に肩が悲鳴を上げる。何事かと、不自然にならないように再び視線を落とせば、きちんと正座した腿の上に、拳が二つ乗っかっているのである。
あまりの事に少年は一瞬体勢を崩す事も忘れ、自らの行いに呆れるばかりだった。ここは自分の家だ、なのにどうして、こんなに緊張してしまっているのだろう。答えは決まっているのだが、差し引いたとしても酷いものだ。本当に原因はそれ、なのだろうか――疑いを抱きつつ眼球を動かしても、視界はどこまでも見慣れた古臭さを映し、無感動に現実を突き付けていく。一つ違いがあるとすれば、ぱらぱらと降る雨音がようやく耳に入って来た事くらいだ。そして初めて少年は、自分の耳が今まで正常に働いていなかった事を知った。
「…いただきます」
雨が降っている。目の前には甘ったるい香りを運ぶ、純白の箱。
折原は直後怪訝そうに目を瞬かせたが、すぐにまた笑顔を作ると、どうぞ、と告げた。
優しい声がした。葉を叩く小雨のように、緩やかな速度で落ちていく。
が、落下地点が少年の鼓膜という点で、それは雨との違いを見せていた。植物ならこんな時、何の躊躇いもなく水滴を受け入れ、喜び、己の中に取り込んでしまうのだろう。少年は思う、自分が植物で、この言葉が単純な水ならばどんなに良かったか、と。宙に留まっている時は過剰な程のやわらかさを漂わせていた男の言葉が、今はねっとりと膜を這い強烈な違和感を刻むのだ。のみ込もうとしても体内が拒絶し、理解力すら鈍らせ、ひたすら焦燥だけを駆り立てていく。
確かに優しいはずなのに、帝人はこれらを凶器のようだと喩えた。実際、言葉自体にそのような攻撃性は無いと解っていたが、肉を柔らかく抉る感覚が消えないのである。痛くはない、狂気じみてもいない。こんなにも正確に人の心を刺せるなら、もはやそれは狂気ではないだろう。明確な意志のもとで進められた行動でないなら他に何だと言うのだ。そう叫んでしまいたくなる程には確信のあるたとえだった。けれど今の少年に叫びを具現化する気力は皆無だ。きっと二つは紙一重で、彼の、折原臨也の中には、否、人間には皆、人としての正常な部分も、狂っている部分もあるに決まっている。もちろん、自分にも。解っている。把握したつもりで、いる。
帝人は一体何を聞かれているのかもよく理解出来ないまま、弾かれたように顔を上げていた。間もなく視線が交わり合う。青年は笑い、少年は驚く。悲しいほどに、異なった色を見せている。
「帝人君」
暫し経って、折原が口にした。相変わらず唄うような低音だった。上の空ではいと答えると、彼は笑うのを止めて微かに眉を下げてしまう。
「自分の家なんだからさ、少しリラックスしたらどうかな」
ただし語尾は笑っている。器用な真似をするのだなという思いと、妙な納得が胸中に広がった。先程まで頑なに侵入を拒んでいた鼓膜がふるりと震え、唇から出て行ったのは情けない、声にもならない声。喜びであるかどうかは定かではないが、ただ、半強制的なものだった。水を貰った、だから咲かなければならない、結果を残さなければならない、と、そのように思う花があるのなら、たぶんそんな感じだ――自分が花だなんて、考えたくもないけれど。
突き詰めて考えれば、喜びとは程遠いのだった。そのくせ思考から雲が剥がれていく。折原の言う通りに、心音はとく、とく、と一定のリズムを取り戻しつつあったし、混乱していた脳も潤うかのように落ち着きを取り戻している。今の労りを、綺麗なものとでも思い込んだのだろうか。確かめようと思った矢先、唐突に肩が悲鳴を上げる。何事かと、不自然にならないように再び視線を落とせば、きちんと正座した腿の上に、拳が二つ乗っかっているのである。
あまりの事に少年は一瞬体勢を崩す事も忘れ、自らの行いに呆れるばかりだった。ここは自分の家だ、なのにどうして、こんなに緊張してしまっているのだろう。答えは決まっているのだが、差し引いたとしても酷いものだ。本当に原因はそれ、なのだろうか――疑いを抱きつつ眼球を動かしても、視界はどこまでも見慣れた古臭さを映し、無感動に現実を突き付けていく。一つ違いがあるとすれば、ぱらぱらと降る雨音がようやく耳に入って来た事くらいだ。そして初めて少年は、自分の耳が今まで正常に働いていなかった事を知った。
「…いただきます」
雨が降っている。目の前には甘ったるい香りを運ぶ、純白の箱。
折原は直後怪訝そうに目を瞬かせたが、すぐにまた笑顔を作ると、どうぞ、と告げた。