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心臓にレッテル

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 そういえば、彼は傘を持っていたっけ。狭い玄関口での対話を思い起こしながら、震える指先が箱の開封に動かす。別の事を考えていなければ、見つめ続ける視線をどうしても意識してしまうのだった。押し付けがましくない一方で突き刺さりそうだという、対極のイメージを隅に置いて、思案する。記憶にある限りでは持っていなかったような気がするが、そうだとすれば、一体どうやって帰るつもりなのだろう。大体にして唐突な雨ではなかったのに。どんよりと重みを含んだ雲が、高層ビルの最上階を呑みこんでしまいそうで、それはもう、見事な曇天を演出していたというのに。降水確率だって高い数値だったし、自分と同じくパソコンを多用している彼がそんな事を見逃すとは思えない。だったら。
 嫌な予感が巡り始める。日はとっぷりと暮れてしまっている。何度目かも解らない緊張が全身を支配していく、その前に、吐いて捨てた。なんなんだ、もう。結局は彼の事を考えてしまっているではないか。
 咄嗟に素早く指を動かしたせいで、枷の外れた白箱が勢いよく中身を晒し出す。そこには予想通りの、所謂スイーツというものが並んでいる。一つだけ異常なのが、並んでいる菓子のが六つとも全て同じものだという事だ。
「え…」
 思わず声が漏れた。
「嫌いだった?」
「……いえ、」
 貴方の考えてる事がよく解らなくなっただけです。喉まで押し寄せた言葉を、唾液と共に流し込む。嫌いではない、好きか嫌いかで言うなら、恐らく好きの方に分類されるもので。けれど、そんな事は今はどうでも良かった。何故この日に、この男が、これを買うに至ったのか、が、脳内で最も大きな疑問として膨れ上がりつつあったのだ。しかし残念な事に、今まで告げられたどの台詞よりも解答がないように思えてならない。帝人は早々に捜索を諦めた。故に、どうして、と問う事もやめた。おもむろに箱の中のシュークリームへ手を伸ばせば、握力が強過ぎたのか、シューからカスタードがどろりと溢れてしまう。少年の、意図していなかったとは言えこどもらしい仕草に、折原は微笑した。
「らしくないね。いや、らしいと言った方が正解かな」
 無視をして大きめの一口。唇の端からまたしても、薄黄色の液体が覗いた。からからに渇いた口内へも流れ、甘さが余計に引き立って味覚を煽る。
 無意識のうちにひとり眉を寄せていた。決して不味かったとか、付着したクリームが不快だとかいう理由からではない。単純に、見られながら食事をするという事に慣れていなかったのだった。家族との同居生活を離れて随分と経つが、それでもここまでの凝視はさすがに貴重な体験なのではなかろうか。そして折原は、その事に気付いているのだろうか。否――気付いていないだろうから、寧ろ、気付いていてそうしているだろうから、隠さずに眉を寄せる事が出来た。そこまで解っていながら尚、彼に対して得体の知れなさを感じ、恐怖してしまう事に憤りを覚える。次は何を言われるのか、その予想すら出来ない。かと言って、先手を打とうなどという考えは最初から存在しなかった。
 折原は流暢に語りだした。
「食べる事って性的だよねえ。勿論そんな気は全然なかったんだけどさ。洒落たケーキ屋に寄ったのも、君にプレゼントをしたのも、本当にただの気まぐれだよ。ただ、君があまりにも予想の斜め上を行くものだから、つい」
「そうですか」
 適当に流すだけの冷静さがあった。雨脚が強くなっていた事も助けになったのかもしれない。この人はいつまでここに居るのだろう、打ち消した考えが起き上がって来たのを皮切りに、自分でも意外な程あからさまな声が出た事を知ってしまう。しまったと思った。だが、たとえ最初から呆れていたところで折原がめげるという想像は欠片も浮かばず、最終的には無駄な努力だった事を認めざるを得なくなる。薄い溜息が湿気を含んだ室内にこぼれた。顔色は窺わないまま、左手で机を支えに立ち上がる。その行動の最中、唇に付いたクリームを舌先で舐め取ると、
「おいで」
 汚れたままの右手を何の躊躇いもなく掴まれ、一度は立ち上がった膝が折り曲げられてしまう。なにを。途中でどこかへ行ってしまった、言葉。目を瞑ろうとして、出来なかった。生温い何かが這っている。正体は解っている、けれど、認めたくないという一心が邪魔をしている。
 舐められているというよりは食まれている感覚に近かった。すっぽりと指の何本かを覆った、男の、唇が、眼球を釘付けにさせる。帝人は目を細めた。青い目と赤い目が衝突を果たし、どちらも笑っていなかったが、ダイレクトに伝わる吐息から、赤い方はやはり笑っているのだった。
 最初から遠慮無しに大胆な動きを見せる舌に、本来なら耳をも真っ赤にするところで全く熱を持てない。とても冷静に、客観的過ぎるくらいに、眺めていた。先程まで男が少年の食事を不躾に凝視していたのと似ている。こんな気分だったのかはやはり解らないが、何となく理解出来た事を知り、本気で自分が恐ろしくなる。知ってしまったのちには身勝手にもわかりたくなかったとかそういう事を思うのだ。ならば、脳が意図的にフリーズしていたとでも言うのか。察してしまった一言さえ、いたずらに差し出されたものだと?
 考えるのも億劫になって、帝人はゆるりと首を振り、投げやった。どうやったって求めてしまう事に変わりはないのだ。単純化していく。だったらもう、一生ここから出さないでほしいのに。戻って来た時の事を思うといつだって寒気がするのだから、このまま連れ出してほしいのに。ああ、けれど、そんな事が叶うはずもないと、自分はどこかで解っている。解っているから、口にしない。導いた答えは何度と使い古された、薄汚いものだった。





心臓にレッテル
(100611)
作品名:心臓にレッテル 作家名:佐古