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空と雲と深緑と

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 弟の瞳の色は、快晴の空を溶かしこんだかのような美しいスカイブルーだった。
 その眼球と一緒に空を眺めるのが好きで、昔はよく小さなアルフレッドを天に向かって抱き上げて、高い高いをしてやったものだ。
 窓の外から見える今日の景色は、思い出の中の晴れ過ぎた空の色と酷似していたので、アーサーの神経をざわざわと騒がせていた。
「つーかさ。あれはマジで酷いと思うよ」
 勝手に部屋に入ってきて勝手に紅茶を淹れ、勝手にソファに座って寛いでいたフランシスが、唐突に誹謗を投げかけて来た。万年筆を持つアーサーの指がピクン、と震えて、滑らかに動いていた英字が紙の上で立ち止まる。
「……その、どうだったんだよ。あいつの具合は」
「お前が噛み付いた傷の、か?」
 厭味ったらしく揶揄されて苛立ちが込み上げたが、何も言える立場では無いことは十分に承知していた。
「ああそうだよ」
 半ば自棄のように吐き捨てて、手の中の万年筆をデスクの上に放り出す。こんな気分の時に仕事なんて出来る筈はなかった。
 重厚な椅子に落ちつけていた上体ごと振り向いて足を組み換え、アーサーは苦々しく舌打ちをした。
「あいつを前にすると、いつも自制がきかなくなるんだ」
「あらら。随分赤裸々だねぇ」
 うるせぇよ、と乱暴に返して、深く溜め息を吐く。
「で、どうだったんだよ。傷は深かったのか?」
「自分で覚えてないの。どんな勢いでつけたか」
「覚えてたら聞かねぇよ」
 歯を立てたのは本当に無意識だった。僅かでも理性が残っていたら、あんな蛮行には及ばなかったと、自分を信じたい。
 抱くだけでは満足出来なかったのだ。身体も精神も、全て自分の中に取り込んでしまいたかった。そうすれば、自分の傍から離れるなんて真似は、決して出来なくなるだろうから。
「傷は、まぁ……手当てしてる最中にあいつが眉一つ動かさなかった程度、ってとこだな」
「…………」
 諷示を帯びた皮肉に、ぴきり、と蟀谷が引き攣る。アルフレッドは、キャッチボールをして小指の先を突き指しただけで、五本の指全部に包帯をぐるぐる巻いて、骨折した、痛くて何も出来ないと大騒ぎするような奴なのだ。その弟が、眉宇を歪めることすらせず、静かに空色の瞳を伏せて激痛を殺している様を慮り、アーサーはぎりり、と奥歯を噛み締めた。
 組んでいた腕を解いて顎に指先を当て、苛々と窓外に視線を逸らす。
「なんだよ、さっきから窓の外ばっか気にして。アルなら暫く戻ってこないよ」
「あ? ちげーよ。空、見てんの」
 面影を探している、という観点から考えたら、帰途を待ち焦がれて外界を眺めていると言った方が余程健全だったかも知れない。
 弟の瞳に似た空の色を眺望していた、なんて口走ったら、気障な台詞を好んで多用するフランシスですらドン引かせてしまうという自覚はあった。
「空、ねぇ……」
 意味深に息を吐いたフランシスの態度が癪に障ったものの、いちいち律儀に反応してやる義理も無いので、御座成りに流しておくことにする。
「あいつはどうせ裏の山にでもいんだろ」
「ご明察。好きなんだって、自然が」
 ふーん、と適当に受け流しつつ、そういえば近代的に発達してきた自国に於いても、何故かアルフレッドは自分の居住を都会の喧騒から離れた自然の中に置きたがっていたなと思い至った。何か理由でもあるのだろうか。
「緑の中にいると安心するんだとよ。なんでだと思う?」
「俺が知るかよ」
 丁度その理由について考えていたところだよ。そう心の中で悪態を吐く。どうせ大した所以ではないだろうけれど、とも。
「それはね、お前の瞳の色と同じだから。だってさ」
「……え?」
 告げられた台詞を耳にして、瞬間、周囲の時間が止まった。
 頭上から冷水を注がれたように、さぁっと体温が引いていくのが解かった。しかし手足の冷えとは裏腹に、心臓はどくどくと沸騰した血液を溢れかえらせる。
「んだよ、知らねぇよ俺は、そんなこと」
 自分でも可笑しいと思うほどに動揺しているのが解かった。見っとも無い、もっと余裕に構えていないと、目の前の性悪男に弱みを握られかねない。なのに、震えだす拳を抑制することが出来ない。
「ところで。さっきからお前は、空ばっかり見てるって言ってたよな。その理由は、何なわけ?」
 全てを看破しているような不敵な微笑を浮かべて、フランシスが尋ねてきた。
「……………………」
 答えられる筈は無かった。
 自分もアルフレッドと同様の理由で、リンクした内容で、空を見上げていたなんてことは。死んでも口外できる事柄ではない。プライドが許す筈は無い。
「っ、……」
  不意にぎりりと眼球が熱くなる。後悔なのか、罪悪なのか、区別の付かない感情が氾濫していて、一気に目頭に向けて集まってきているようだった。
「ほんと、お前は馬鹿だよなー。さっさと迎えにいってやれよ。オニイチャン」
 小馬鹿にしたような口調で吐き捨てられて、普段の自分だったら物言いの気に入らなさに激怒している所だったけれど、今はそれ所では無かった。
 上体がよろけた拍子に椅子が軋み、ガタン、と後方のデスクに肘を付いた。書き掛けだった書類が無残にひしゃげる。
「……行ける訳、ねぇよ」
 自分が弟に何をしたのか。その所業を忘れたわけではなかった。
 征服欲を満たすために肉体を犯し、それでも我慢できずに肌に咬創を刻んだ。甘い鮮血を啜り、陶酔に浸っていた所でハッと我に返って、愕然とした。
 ――これからどんなことがあっても守ってやる。俺はお前の兄貴なんだ。
 まだアルフレッドが腕の中に収まるほどに小さかった頃、密やかに立てた誓約。それを自らが破ってしまうことになるとは、当時は微塵にも思っていなかった。
 大切だった。何よりも愛しかった。他人の体温がこれほどまでに温かいということを、幼い弟を抱いて初めて知ることが出来た。
 本当は、初めからきちんと解かっていたつもりだったのに。
 いつか、こいつは自分の庇護から外れて、離れて行くのだと。
 これ以上抱えてはいられない。内包し続けるには、弟の存在は大きくなりすぎた。とても自分の手の内に収まる器ではないのだ。
「俺は、あいつの足枷にしか、ならねぇんだ」
 早く自由の大空へと還してあげないといけない。
 でも、手放したくは無い。
 矛盾する二つの思考が、精神に多大な圧力を掛けて、苛立ちを募らせる。情緒を不安定にさせる。
 こんな狂った兄など、アルフレッドには重荷でしかないだろう。
「俺は、雲と同じなんだよ。一面の快晴を遮る邪魔者でしか」
 ねぇんだ。
 密やかに囁いて。
 弟が好きだと言ってくれた碧色の瞳を滲ませて、兄は噛み締めた奥歯からくぐもらせた嗚咽を漏らした。
 それは、アーサーが弟の所有を放棄する、少し前の夏の日の出来事だった。
作品名:空と雲と深緑と 作家名:鈴木イチ