空と雲と深緑と
「馬鹿なんだよ」
心を込めて罵倒して、大袈裟に溜息を吐いて見せた。アーサーが馬鹿なのは自分が一番よく知っていることだけど、言葉に出すとしみじみそれを実感することが出来る。
「こんな遠回しなことするくらいなら、謝ってしまえばいいと俺は思うんだけど」
深々と嘆息しながら吐き出されたフランシスの台詞に、アルフレッドはそれは違うよ、と即座に否定を示した。
「謝るくらいなら、最初からやらなければ良い」
竹を割るようにきっぱりと言い張ってから、それに、とアルフレッドは続ける。
「彼が謝らないから、俺は許す権利を得なくて済むんだ」
自らの過失を贖うかのように頬を自虐の形に歪めて、アルフレッドは快晴の空を映したかのような水色の瞳をそっと伏せた。
「アーサーを、許さなくて済むんだ」
「…………」
贖罪のような告白を聞いて、フランシスは思わず絶句した。幼さの残る端正な顔立ちに修正不可能な綻びを見た気がして、背筋がぶるりと戦慄する。
漸く、理解できた。
アルフレッドは縛られたがっているのだ、と。
(そういうことか……)
向けられる執着の深さに酔い痴れ、愛情が過ぎて憎悪から虐待へと変化しつつある兄の狂態を、本能では密かに悦んでいる。雁字搦めに捕らわれたまま、窒息しそうな繭の中で、甘美な夢を見ている。
狂気を向けられれば向けられるだけ、自分の存在が必要とされているのだと言う実感を、特別視されているのだと言う事実を、全身の感覚で感受しているのだ。
だけど、もしアーサーからの謝罪を受けたら、その全てを放棄して現実世界に戻ってこなくてはいけない。
他の奴らと同じように、数ある植民地の内の一つという、その他大勢と同じ扱いに戻らなければいけない。
アルフレッドは、それを恐れているのだと思った。
(歪んでるな……)
とても正常な関係ではない。互いに抱いている想いは同じ筈なのに、些細なすれ違いでここまで歪曲してしまえるものなのだろうか。
「離れようとは思わないの?」
アルフレッドの成長スピードは、端から見ていても脅威を覚えるほどに凄まじかった。身内に抱えていたら、とてもじゃないけれど冷静でいられるとは思えない。
思惑を越えて巨大化しつつある己に、アルフレッド自身も戸惑っているように見受けられた。既にとある分野ではアーサーを凌駕しつつあり、彼を目指して全力疾走し続けていたアルフレッドにとっては喜ぶべき結果なのだけれど、心の何処かでは寂しかった。自らの能力に満悦し、優越感に浸る気分には到底なれない。かと言って、失望を覚えるわけでもない。胸中には、ただ、寂寞が広がっていた。
「きっとそう遠くない未来に、俺はアーサーが必要じゃなくなるんだ」
ぽつりと呟いた自分の言葉に、自分で傷付く。
望むべきではない予見なのに、終焉は確実に近付いてきつつあった。
「でも、駄目かなー。何だかんだ言って、俺、アーサーの身体が好きだし」
わざと明るい口調で発された言葉が、逆に白々しく響き渡る。
(身体なんかより、ずっと)
心の方が重症なんじゃないのか? と声に出しかけて、フランシスは止めておいた。そんなことは、言われるまでも無くアルフレッド自身が深く自覚しているだろうから、代わりに違う言葉を舌に乗せる。
「あの時、俺を選んどけば良かったのにな」
「ほんとだよ」
互いに本音でもない会話を繰り広げながら、苦い笑みを浮かべ合う。
「あーもう。痛くて仕様がないよ、ほんと」
傷ではなくて。
とても近い場所にあるけれど、もっと身体の奥の、深い部分が、どうしようもなくズキズキしていて、疼痛は止みそうも無かった。
肉体的な痛みは、数日もすれば綺麗さっぱり無くなってしまう。後に残らなければ何の意味も無い。こんな、すぐに消えてしまうような傷を付けなくても、俺はもうとっくに、君から抜け出せなくなっているのに。
何も解かっていないんだな、と思う。アーサーは、自分自身のことも、アルフレッドのことも。何も解かってない。
(何も、だ……)
もう一度、空を仰ぎ見て、アルフレッドは晴れすぎた雲間を視界に入れた。傷口を固定して貰えたお陰で、首を巡らせてもいちいち痛みが走らなくなった事に感謝を覚える。
上空の風は地上よりも強いらしく、いっそ気持ち良いくらいに、白い塊はぐんぐんと流されていった。
君たちはどこに向かってるんだい。
そう問い掛けてみたい。決して答えてはくれだいだろうけれど。
そして、重ねて問い質してみたい。
「……俺は、どこに向かうのかな」
それは、アルフレッドが独立を決意する、少し前の夏の日の出来事だった。