金魚 番外編
パタン、と扉の開いた音を怪訝に思い、アーサーは深く落としていた意識を急速に浮上させた。
大きな屋敷とはいえ今は一人で暮らしているようなものなので、部屋を訪ねてくる人物など思いつかない。家事や仕事の補佐をさせている執事やメイドが、こんな夜更けに主人の部屋に侵入するとも考えられなかった。
「誰だ、こんな夜中に」
鋭い誰何を投げつつ、まさか泥棒か何かの類いか? と昔の好戦的な血が疼き出すのを堪えながら素早く上体を起こして読書スタンドを点けてみると、扉の前には意外な人物が立っていた。
「……アルか?」
カーテンの隙間から漏れる月光を浴びて、くすんだ金髪が仄かに発光して見える。白い肌と相俟って、小さな金魚の顔は最高級の陶器人形のように荘厳な美しさを放っていた。
「うん。俺だよ、アーサー」
虚を突かれたアーサーは目を瞠り、扉の前で所在無く佇んでいる小さな彼をじっと凝視する。
無言の時間の気まずさが主人の咎めを表していると勘違いした彼は、今日はちゃんと髪、乾かしてきたぞ、と言って少しだけ頬を膨らませた。
「ねぇ。だから、今晩一緒に寝ても良いかい?」
「は?」
戸惑うアーサーが返答するのを待たずに、アルフレッドはペタペタと裸足の足音を鳴らせてシーツを捲くり上げ、ベッドに潜り込んで来た。脇腹のすぐ横にぴったりとくっついて、猫のように身体を丸めて横たわる。
「おいっ」
慌てて諌めても、小さな彼はもう、すっかりこの場所で眠ることを決め込んでいるらしかった。柔らかな金糸の髪をふわりとシーツに広げ、丸めた拳を口元に当てて、早くもすうすうと寝息を立て始める。どこまでも身勝手な行動にブチリと蟀谷の血管を切らせたアーサーは、小さな金魚の細い肩を掴んでごろん、と軽い身体を転がした。
「寝付きが良いのもいい加減にしろ、この馬鹿!」
「わー」
ベッドから転がり落ちるぎりぎりの所で仰向けになったアルフレッドは、空色の瞳を恨めしそうに細めてこちらを見上げてきた。
「なんだよー。せっかく眠れそうだったのに」
「だぁから、ここで寝るなっ。主人のベッドに潜ってくる家畜なんて聞いたことねぇぞ」
「えへへへ」
「照れるな。褒めてねぇよ」
柔らかな髪をパコンと叩いてすっぱりと一蹴したものの、うっすらと頬を染めてあどけなく見上げてくる仕草にアーサーの目は釘付けとなった。
転がった拍子に金魚特有のヒラヒラした朱色の衣が捲れて、内側から雪よりも白く淡い柔肌を持つ腹が覗いている。
(……こいつ)
アルフレッドは元が標準以上に整った顔立ちを持っているため、この状況はちょっと洒落にならないかも知れないと思った。
この見てくれだったら、見境の無い奴なら手を出されてもおかしくないのではないか。思わずそんな下世話な想像までしてしまい、アーサーは盛大に溜息を吐いて、痛み出した蟀谷を指の腹で揉み解した。
「つーか、こんな夜更けにベッドに入ってくるのはどーなんだよ。俺が紳士だったから良かったものの」
「紳士じゃなかったら、どうなってたんだ?」
「……あのなぁ」
それを聞くのか。
頭痛の増しそうな質問にげんなりとしたが、当のアルフレッドはキョトンと首を傾げて、不思議そうな眼差しで真っ直ぐこちらを見上げている。
その様子を見ていたアーサーは、ぐっと息を詰まらせて絶句したが、僅かな逡巡の末にこの何も知らない無知な金魚に人間の汚濁を教えてやるのも一興だと思い至った。
「いいぜ。教えてやるよ」
ふっと表情を真剣なものに変えて、アルフレッドを腕の中に閉じ込めたアーサーは、頬に指先を添えてそのすべらかな感触を楽しむように親指の腹で薄く開いた唇を軽くなぞった。
触れられても小さな金魚は事情が飲み込めない様子で、ポカンを主人の顔を見上げている。
アーサーはゆっくりと、小さな赤い唇に自らの唇を寄せていった。
「んっ……?」
口付けた瞬間に、微かに漏れた声にならない呻きと、円らな瞳がパチパチと瞬く気配。反射的に掴んだのだろうシャツの裾を引っ張るように握り締める小さな掌の感触。それらの全てを無視して、アーサーは重ねた唇を更に深く合わせ直した。
「んんっ……んぅっ」
惰性のまま舌を潜り込ませてみると、喉の奥からくぐもった悲鳴が上がる。構わずに竦んでいた舌を絡め取り、やんわりと吸ってやった。
容姿や体型は人間のそれとほぼ変わらないが、一応ヒトとは異なる種族であるため、内部構造に関しては少しだけ不安を抱いていたが、どうやら杞憂に終わったようだ。唇や舌、肌、髪、全てに於いて人間と変わらない。むしろ上等と言っても良いほどの触り心地だった。下手な女よりもよほど滑らかですらある。
「んっ……ふ、ぁ……っ」
思わず夢中になって唇を貪っていると、息が出来なくて苦しいのか、裾を持つ掌がギュッと強張った。
やべ、と思い急いでキスを解いてやると、アルフレッドは空色の瞳にたっぷりと涙を溜めて酷く狼狽したような表情で濡れた唇を掌で覆った。
「ちょっ、ちょっと待つんだぞ! ヒトは俺たちの生肉は食べちゃいけないんだ、ちゃんと解体して、火を通してからじゃないとお腹壊しちゃうかもしれないんだっ」
「……は?」
意味不明の言葉にアーサーは面食らったように瞠目したが、どうやら彼は今この場で捕食さていると勘違いしたらしい。そう気付いたアーサーはガックリと肩を落として頭を抱え込んだ。
(いや、食うっつーのも、ある意味では合ってんだけどさ…)
途中から、ついうっかり理性を飛ばして本気のキスをしていたアーサーは、こんな異種生物のガキに何をやっているんだと半ば自己嫌悪に陥りながら苦笑を浮かべた。
「ちげーよ。さっきのは、人間が好意を持ってる奴にする挨拶って言うか、愛情表現って言うか」
そう言えばキスの本当の意味を知らないと気付いたアーサーは、説明が面倒になって強制的に話を終わらせた。
「とにかく。食ってるわけじゃねぇから安心しろ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
なーんだ、そっか、とアルフレッドはホッとしたような、残念がっているような、複雑な顔になった。しかしすぐに表情を入れ替えて、いつものあのお日様のような満面笑顔を浮かべる。
「じゃあ、もっとして?」
「は?」
「さっきの。ヒトが好意を持ってる相手にするんだろ?」
くい、と服の裾を引っ張られたかと思えば、催促するように上目遣いで、少し頬を膨らませながら唇を尖らせている。こいつマジで狙ってんじゃねーのかと本気で疑いたくなるほどのおねだりポーズに、アーサーは目の前がクラリと揺れるのを感じた。一瞬揺らぎかけた理性を手繰り寄せるように、ふるふると首を振る。
「しねーよ。言っただろ、さっきのはヒトがヒトにするための行為だ」
「金魚には出来ないのか?」
「そうだ」
ついさっき思い切り濃厚なキスをかましておきながら説得力皆無だと思いつつ、ヒラヒラと手を振って邪険に扱うと、アルフレッドはふーん、とさして追随もせずにころんと顔を横に逸らせた。どうやらかなり眠たいらしい。
喋りや頭の回転は驚くほど達者だけれど、やはり容姿の通り中身も子供なのだ。アーサーは根負けしたように苦笑して、もぞりと落ち着けていた腰を持ち上げた。