金魚 番外編
「わかったよ、俺の負けだ。此処で寝てもいいけど、間違っても夜中に蹴ったりすんなよ」
仕方なくベッドを少しだけ開け放してやって、小さな身体が落ちてしまわないようにと、腕を取って引き寄せた。
そう言えば昔は、飼っていたゴールデン・レトリバーと一緒のベッドで寝ていた時期があったことを思い出した。それと変わらないと思えば、こいつと一緒に寝ることもそんなに可笑しいことではない、のかも知れない。
(さみーし。なんかコイツ、体温高いんだよな)
子供体温がぬくいのはヒトも金魚も変わらないのか、触れた場所をほこほこと温めてくれるアルフレッドの肩を抱いて引き寄せて、アーサーは読書スタンドの電球を消した。
「……俺、そんなに寝相悪くないんだぞ」
暗くなった室内から、アルフレッドの細い囁きが聞こえたけれど、もぞもぞと居心地悪そうに動いている細い肩を無視して思い切り抱き締めてやった。温かい。これはよく眠れるかも知れない。
「うるせーよ。さっさと寝ろ」
柔らかい金髪の中に顔を埋めると、途端にふわりと石鹸のにおいがした。プールから出て、眠る前は必ずシャワーを浴びろと言う約束をきちんと守っている小さな金魚にうっすらと満足を覚える。
(なんだ。ちゃんと言い付けを守ることも出来るんじゃねぇか)
鼻の頭で擽るように髪を掻き分けて、清潔な香りのする地肌にそっとキスをする。
この感触はやばい。ちょっぴり癖になるかも知れないな、と思った。
寒さの厳しい冬の間は、こうやってずっと抱き締めて眠るのも悪くないかも知れない。
(これからもずっと、こうやって、ずっと……)
一緒にいられたら良い。
主人と家畜としてではなく、人間と金魚としてでも無く。
兄と弟のような関係で、こんな風にずっと優しい時間を過ごせていけたら良い。
そうしたら、どんなに幸せなんだろうな。
そんな事を考えながら、アーサーは幼いアルフレッドを抱いて眠りに落ちていった。
予想外の強い力で抱き締められて、正体不明の胸のバクバクに襲われてしまったアルフレッドが、すっかり寝付けなくなってしまったとも露知らず。
(どうしたらいいんだ、これ……)
シャツの襟から覗いた素肌に頬をぴたりとくっつけるような形でしっかり固定されてしまい、花だか紅茶だか解からないけれど何か良い香りのする首筋に頭を突っ込んでいる状態なのだ。穏やかな吐息が髪の毛を掠めていく感触もする。とてもじゃないけど眠れるような状況ではない。眠ってしまうのが勿体無いと思った。
くすぐったくて、あったかくて、なんだか少し照れ臭くて、もう少し位離れても良いだろうと思い、もそもそと身体を動かしてみるけれど、その度に背中に回った腕の力は強くなる一方なので、もう諦めてしまった。
仕方が無いので、おずおずとアーサーの背中に腕を回してみる。
(あったかい)
こんな風に人間に抱き締められる日が来るなんて夢にも思ってみなかった。きっと自分はとてつもなく主人に恵まれた、幸せな金魚なのだろう。
身を委ねるようにアーサーの腕の中に包まって、アルフレッドはそっと空色の瞳を閉ざした。
その小さな胸の中には、凛と誇らしげに咲いた一輪の花が決意の色を深めていた。
(やっぱり俺、アーサーが大好きだよ)
この世界でいちばん、大好きな相手だから。
だから、朝になったら、この温かい腕の中から抜けて、ベッドから出て、部屋から出て。その足で海を越えた遠い異国へと旅立とうと思った。
本当はもっと近場の方が鮮度は落ちないのだろうけれど、でも思い当たる節はそこしかないのだ。
アルフレッドは伏せていた瞳を開けて、狭い隙間をもぞもぞと縫うように胸の前で丸めていた腕を持ち上げると、そっとアーサーの唇に触れてみる。
だから、ねぇ。
――俺を食べて?
幸せそうに微笑みながら、心の中でそっと語り掛ける。
少しだけ顔を上向けて、形の良い顎に唇をくっつけてみた。ついさっき、アーサーがやってくれたみたいに。
祈るような顔で、アルフレッドはキスをする。
そうして寄り添うように丸くなって眠れば、辺りには優しい夜闇の帳が二人の身体を包み込んだ。
まるで年の離れた兄が、幼い弟を抱いて眠るように。
例えそれが明け方になったら溶けてしまう、雪のように儚い抱擁であったとしても。
この瞬間に実在する絆だけは、未来永劫に普遍することなく、二人の記憶に刻み込まれた。