奏
その日によって、調子の善し悪しというのはある、どんなことにもだ。
自分の体調やマシンの調整には、調子などという言葉で言い訳をしたくはないのだが、乗る乗らないはやはりある。
昔から趣味にしている分野にもそれは当然あって、今日はどちらかと言えば乗っている方だった。
鍵盤の上を滑らかに指が動く日は気分が良い。
自らの思うままに表現できるというのは、何かを作り上げる過程での、何も代え難い喜びなのだと思う。
別に自分は、何か大層な芸術作品を作り上げているわけではないのだけれど。
こんな言い方は烏滸がましいかもしれないが、演奏をしている瞬間だけは、表現者でありたいと思う。
たとえ、どんなに小さなものでも。
ここ最近取りかかっているのはなかなかの難曲で、指の運びが難しい。
いや、運指だけなら正確に運んでいる自信はあるのだが、むしろ難しいのは表現の方法か。
情感を込めての演奏がとても重要になってくるのだけれど、それがなかなか上手くいかない。
すでに何週間かかけて練習を続けているが、最後まで納得のいく音では演奏できていないのだ、一度も。
プロの演奏家というのは、どんな気持ちなのだろうか。
弾くだけではなく、聴く方もそれなりに趣味にしているから、様々な演奏を聴く機会がある。
CDでもそうだし、演奏会に行ってもそうだが、時々聴くだけでいてもたってもいられなくなるような音に出会うことがある。
趣味程度でしかない自分ごときに、そんなよい音が出るだなんて思っていないけれど、何を目指して演奏を続けるのか、時々それを専門に生きている人たちに聞いてみたくなる。
何を思えばそんな音が出るのだと。
それはともかく、今日はどちらかと言えば乗っている方だった。
あまり考えずに、もっと好きに弾いてみたらどうなんだとチームの仲間から言われたことを思い出して、難しく考えずにいたせいかもしれない。
他人から聴いてどうだかは分からないが、自分は楽しかった。
と、曲がある程度弾き進んだところで、ページの分かれ目に近づいてきた。
ちょうど両手のどちらも放すタイミングのない小節が連なっている部分。
演奏の合間にぱらりと捲るのは難しいところだ。
普段なら数瞬演奏を止めて自分で捲るのだが、今日はこの曲に取り組みだしてから初めて、調子がよかったのだ。
演奏を止めたくなかった。
けれど、いまだ暗譜する域にまでは達していないこの曲で、ページをめくらないままで演奏を続けるのは心許ない。
しかし、止めたくない、
けれど、
ぱらり
そこへ、すいと背後から伸びてきた腕がページをめくった。
アドルフの側頭部を掠めて伸びたその腕は、下がるのかと思いきやそのままピアノの譜面台の上辺りに固定された。
僅かに凭れるようにした腕の主は、声をかけるでもなく、ただアドルフの斜め後ろでじっと立っている。
見なくても優しげに見守る視線を感じて、アドルフは指を進めた。
曲の終わりまでにはあと数回、ページを捲らなくてはならない。
けれど、腕の主の気配がなんとなく、捲ってやるから安心しろと告げているような気がして、アドルフは余計な思考を頭から追い出した。
これから、この曲一番の盛り上がりの場面なのだ。
演奏を終えて振り返ると、間近でヘスラーがにこりと柔らかく表情を崩した。
ページをめくった手がそっと降りて、鍵盤へと伸びてくる。
「今までも何度も聴いたが、やはり良い曲だな」
言いながら、自分よりも大きめの指が静かに鍵盤に降りた。
中指で押されたそれは、ぽーんとひとつ、澄んだ音を立てる。
ちょうどそれはドの音で、低すぎず高すぎず、部屋の中に響いて空気に紛れるように消えた。
とても柔らかい音だったとアドルフは思った。
音にも個性がある。
ヘスラーの出す音はとても耳に心地がよいのだと、たった一音なのに、そんなことを思った。
その指になんとなく視線を固定したまま、礼を言った。
「ちょうど、ページを捲る手がほしかったところだった」
その後もずっとヘスラーの手は止まず、必要な箇所でちょうどよいタイミングでページは捲られ続けたのだ。
音楽に特別な知識があるわけでないにしては、それはどれも自分にとって一番よいタイミングだった。
「ああ、何度も聴いているからな、」
どこで捲るのか覚えてしまった、とヘスラーが笑う。
そういえばいつの間に部屋に入り込んだのかと、今更そんなことを頭の片隅で思ったが、ヘスラーのことだからノックをしなかったわけではないだろう。
おそらく、ピアノに夢中の自分がそんな音を拾えずにいて、それはままあることだから、ヘスラーはそのまま入ってきたのだろう。
「今日も熱心だな。ノックにも気付かないんだから」
やはりそうだったようだ。
小さく首を竦めて、頭をかいた。
「ああ、まあ。なかなか満足に弾けないからな。かえって躍起になる」
「難敵ほど倒し甲斐がある?」
「そうだな、」
レースに喩えるヘスラーに苦笑すると、ヘスラーが、しかし、と首を傾げた。
音楽に詳しくない俺が言うのもなんだが、と前置きをして、
「でも、今日の演奏は、結構満足がいっていたんじゃないのか?」
「……なんで、そう思うんだ?」
「何となく、だが。いつもより音が弾んでいるように聴こえたんだ」
でもまあ、素人の感想だしな、気にしないでくれとヘスラーが肩を竦めて、鍵盤から指を離した。
ピアノを聴いてくれないかと頼んだことが、何度もある。
聴かせてくれと頼まれたこともある。
どちらのときも、詳しくないはずのピアノの調べにいつでも真剣に耳を傾けて、演奏が終わるとヘスラーは必ず何か一言を寄越した。
詳しくないなりに、言葉を選んで、探して、感想をくれた。
いつもいつも当を得ている訳ではなかったが、誠実な彼がきちんと吟味して発した言葉はいつも自分の中にすとんと落ちた。
もっと元気よく弾いてみてもいいんじゃないかと言われて、演奏を変えてみたらその方がしっくり来たこともある。
よい曲だと言われれば、単純に嬉しくて、もっとよくしようと内心で張り切った。
ヘスラーの言葉はいつも自分の中にすんなり入ってくる。
……「聴かせてくれ」という言葉すら、ヘスラーが望んだというよりも、アドルフへの気遣いの側面が大きいことを知っている。
ピアノを演奏していると、無性に誰かに聴いてもらいたくなる瞬間があるのだ。
自分はあくまで趣味で弾いているだけで、どこかで演奏するとか披露するというようなものではないのだけれど。
誰かの言葉や視線がほしくなる瞬間が、ある。
そういうとき、それを察知してなのかはたまた無意識なのかはわからないが、何故かヘスラーは大抵傍にいて、ずっと演奏を聴いていてくれる。
練習を重ねてきたのは自分だが、演奏を育ててくれたのは、ある意味ヘスラーだ。
その彼がよかったと言ってくれるのなら、きっとそれは本当によかったのだ。
思い返してみれば、調子のよくなるきっかけだって、ヘスラーの一言だった。
『難しく考えすぎずに、もっと好きなように弾いてみたらいいんじゃないのか?』
悩んでいる音は、アドルフらしくない。
そう言ったヘスラーの言葉が、今日の演奏のきっかけだった。