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空の墜落

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頬が熱い。
口の端から滴る赤い流れはもっと熱かった。耳鳴りのような雑音が始終響いて、忙しなく瞬きを繰り返す。流川は鈍く痛む頭を抱えてコンクリートの床に投げ出された。荒く息だけを吐きながら見上げた空はひどくどんよりと曇っていて、これが快晴だったらどんなに良かっただろうと馬鹿げた妄想を流川は抱える。

「何とか言えよ、」

流川を殴り飛ばした当の本人は息を切らせながら虚しさに耐え切れず喚いていた。殴り飛ばしても、殴り飛ばしても、彼の中の空虚な部分は埋まったりはしない。それをちゃんと理解していた流川はそんなことにこれまた馬鹿げた優越感を感じながら、上半身を持ち上げた。赤い髪の男の睨む目つきが、懐かしさを帯びて流川を見ている。けれども、流川はこれが自分の知っている人間じゃなかったらと願っていた、彼は確かに彼であったが、彼でない可能性を流川は少しだけ信じていた。それは結局無意味な願いであったのだけれど。
何も言うことなどないと(言いたくないと)思った流川は、ただ嘲るような笑みだけ浮かべて男の行動を眺めていた。それは男の怒りに油を注ぐ行為ではあったが、流川は別に殴られるのが怖いわけではなかったし、男が少しでも、自分を違う他人だと、せめて思ってくれればいいと思っていた。変わってしまったのか、そうでないのか、会わずにいた期間は長く、判断するには難しい。けれども、けれども、昔、やっぱりあの屋上で初めて会った時と同じ目をしたこの男は、今もそんなに変わっていないんだろうと流川は思う。眩しいなと流川は思う。

「なんとか言えって言ってんだろ!流川!!」

二歩で詰め寄ってきた男が、流川の胸ぐらをつかみ頭が揺れるほど強く揺さぶった。痺れて力の入らなくなった腕でどうにか解こうとするが、男の手は強く掴んだままだ。
しつこく離そうとしない手を流川がうるせぇと呟いて払おうとすると、どういうわけか今度はたやすく離された。体が揺らぎ、コンクリートの上に細長く不健康に色白い流川が転がる。転がったまま、流川は男の顔を見上げた。額に汗が溜まりいくつかの筋になって首筋に流れている。まるで昔に戻ったような錯覚を流川は覚えたが、男がまた胸ぐらをつかみなおしたのでその幻想からすぐに離れなくてはならなかった。
触れれば燃えてしまいそうなほどの熱がすぐそばにあると流川は思った。燃えるような髪は今でも健在で、意志の強い瞳の奥で狂おしいほどの何かが流れていることを流川は知る。

「何も話すことなんてねぇよ。」

かすれる声を搾り出すように言えば、もう一発流川の頬に衝撃が走った。体がふわりと浮き、けれどそんな浮遊も虚しく体を痺れさせるような痛みが襲う。一瞬で流川は男の前から少しばかり離れたところに横たわった。どうしようもなく震える腕が忌々しいと流川は思う。

「どういう意味だっつってんだ!!答えやがれ!!流川!!!」

治らない耳鳴りの奥に響くように男の声が響くのを流川は茫然と聞いていた。それから軋む体を持ち上げて、無理やり起こして荒々しく歩く男をただ眺めた。
律義に半歩ほど離れたところで返答を待つ男を、生理的に荒くなってしまった呼吸を整えながら馬鹿らしいと流川は思う。

「意味なんてねぇよ。」

男がその言葉にまた目を剥いたが、流川は気にせず後ろを向いた。二度殴られた頬が腫れて、今も口の端から血が滴っている。確かめるように触れると確かに唇の端が切れていた。気付くと口の中にも鉄の味が広がっていた。
乱れた服を直しながら流川が出口に向かおうとすると、男は今度腕を掴んだ。視線で逃げるのかとでも言いながら、男は流川を見つめている。馬鹿らしいと思いながら、今度は強くその腕を流川は払う。この男が俺の知っている男でなければどんなに良かっただろうと流川は思った。そうしたら、この腕を払いのけ、死ぬまで殴りつけたってよかったし、逆に殺されたって文句はなかった。
流川と男の視線がひとたび絡み、流川は昔を思い出す。父のオフィスで渡された写真に写っていたこいつも今と同じような顔をしていた。殺せと言われた言葉がどれほど非現実に感じられたか、この男は果して知らないのだろうと、流川はただ考えた。

***

流川が実父と会話をしたのは、とても暑い夏の日だった。蒸した部屋にエアコンが唸る音がむなしく響いて、ニスの塗られた重厚な机を挟み、会話した時のことを流川は今でもありありと思いだせる。重厚な机の上の写真を指差して、こいつを殺せと言った父親の言葉を聞いた時のあの奇妙な感覚。父親の話していた言葉の仔細などその時の流川には届いていなかった。
彼の目の前をよぎっていたのは、彼にとって高校最後の夏の屋上での会話だった。その部屋のように熱く、けれども晴れ渡る空には見事な入道雲が居座り、そしてそいつがいた、と流川は思う。額に滲んだ汗を流川はぬぐった。
真夏の風が走りまわる屋上で、流川と男が交わした会話はわずかだった。男のほうはおそらくあること無いこと言い続けていたのだろうが、残念なことに流川ははっきりと覚えていない。

「お前、大学行くのか」

その問いはどちらからからとも知れず現れて、そしてその場に数秒の沈黙を生んだ。
流川はただ言葉少なく行かないとだけ答え、男もそれに同意した。家が家だけに流川にとって学歴なんぞあってなかったようなものだったから、ほんとは高校すら行こうか迷っていたのだ。
流川の言葉に同意した男は、壊れかけたフェンスに凭れて随分なアホ面を晒しながら空を仰いでいた。

「でも、よくわかんねぇけど、なんか、お前とはまたどっかであう気がする。」

男はそのまま青い空がひどく似合う顔をして朗らかに笑う。

「なんだ、それ」
「天才の天才による天才ゆえの勘。」
「ドアホ」

流川は溜息を吐き、眩しい空に目を細めた。男はいやに耳に着く声で騒ぎ立てて、天才を馬鹿にするなだとか、このクソギツネだとか言っていたが、流川は空から目を離さなかった。高い空を一羽の鳥が横切っていく。

「出来れば、」
「あ?」
「俺は会いたくねぇ。」

流川がそういうと、男は不明瞭な声をあげて思いっきり顔を歪めた。どう意味だよ、と不機嫌そうに顰められる表情がぺたりと張り付く。流川はそれを眺めてああ眩しいななんてことを馬鹿みたいに思う。真夏の風が暑い。

「残念だったな、クソギツネ。俺の勘は外れねぇんだよ。天才だからな!」
「じゃあ、外れるな。」
「どういう意味だ!!」

他愛ない会話が続いても、流川が自分のことを語ることはついになかった。言い出すつもりもなかったんだろうし、これっきりだと信じていたのだろう。人気のない屋上には暑い風だけが吹いて、灰色と青と白とが混在する中に響く、朗らかな男の馬鹿笑いの声を流川は鮮明に覚えている。
ああ、こいつの勘は当たったのか、と流川が思ったのは、隠し撮りなはずなのになぜかカメラ目線な、記憶よりも少しだけ髪の伸びた男をオフィスの中、重厚な机の写真の中で見つけた時だった。

***
作品名:空の墜落 作家名:poco