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寝言を信じてはいけません

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波江


珍しく熱を出し、静雄のベッドに寝ている臨也が呟いた。飲ませてやろうと、手にしていた水のペットボトルが派手に凹む音を立てる。
近づいてみれば臨也は顔を赤くし、やや乱れた呼吸をしながらも眠っていた。どうやら寝言らしい。
波江?誰だ、それ。
心臓が、直接鳥肌を立てたような感覚がした。
臨也の交友関係はほとんど知らない。池袋や新宿にいる、静雄も知っているような人物とは関係を持っていることはわかるが、それくらいだ。静雄が知らない臨也だけの交友関係は、浅いか深いかは別にしても、きっと呆れるほど広いのだろう。
だけど風邪を引き、熱にうなされながら呟く名前は、わりとその人間にとって重要な人物ではないのか?
波江。
臨也の口からは一度も聞いたことがない。もともと誰と会ってきたとか、どんなことをしてきたとか、そういう類の話はしない。だから聞いたことがなくてもおかしくはない。だけど寝言で呟く相手となれば別だ。
今すぐ揺さぶり起こして、誰だと訊ねたいところをぐっとこらえる。相手は臨也とはいえ、病人なのだ。ただ握っていたペットボトルは気がつけば潰され、中の水はすべて絨毯にしみこんでいた。
(くそ、なんなんだ)
染みになった絨毯に舌打ちが出る。絨毯にではなく、逆立っている自分の感情に苛立った。
そのとき、携帯電話の着信音が鳴った。臨也のものだ。外側に表示される着信相手が見えて、はっとした。「波江」だった。
人の携帯を触る趣味はない。興味もない。特に臨也の携帯は、興味を持ってもなにもいいことがないことがわかりきっている。そして、たとえ取ろうとしたところで臨也のことだから厳重にロックがかけられ、無理なのだろう。
じっと着信音が止むのを待った。着信があったことを知らせる携帯の光を見ていたら、ふと思い立った。どうしてそんなことを思いついたのかわからない。虫の報せに近いものかもしれない。
臨也の自宅兼事務所に電話をかけることはほとんどない。一度もかけたことがないかもしれない。だけどそのときは、そこにかければなにかが待っているような気がしたのだ。
携帯を取り出し、臨也の事務所にかけてみる。本人が目の前で寝ているのになにをやっているのだろう、と考えているうちに、受話器から耳にしたことのない声が聞こえた。


「あら、ほんとに具合が悪いのね」
女はドアを開けるなり、静雄の背中に担がれている臨也を見て、表情ひとつ変えずに言った。
「どうぞ、入って」
促されるままに女のあとをついて家にあがる。数回しか入ったことのない臨也の部屋は、相変わらず無駄がない。言動だけならばいい加減を地でいくような男なのに、この部屋を見る限りは几帳面さも持ち合わせているのだろう。そういえば、コーヒーを飲むときでもがさつにカップに注ぐだけではなく、皿までつけていたな、とどうでもいいことを思い出した。
「ここに寝かせてくれる?」
同じく数回しか入ったことのない臨也の寝室に、女は躊躇いもなく入っていき、ベッドの毛布をめくった。静雄がそこに臨也を横たえると、その額に手を当てた。その光景に、ふっと息が詰まり、思わず拳を握り締めた。
「結構な熱ね。風邪みたいだけど、珍しいわね」
そして女はクローゼットの扉を開け、迷うことなく部屋着と思われるものを取り出した。
その一連の動作に見入っていると、女が不思議そうに首を傾げた。
「なに?」
「いや……別に」
女は興味がなさそうに、ふうん、とだけ言って、着替えを静雄に差し出した。
「これ、着替えさせておいてくれる?あなたの服?よね。これ。それも汗で濡れているみたいだし。ああ、できるならタオルで体も拭いてあげて」
「え……」
静雄が反論する間もなく、女は強引に静雄の手に着替えを託すと、自分はさっさとリビングのほうに向かってしまった。すぐに投げ込まれたタオルは熱く、固く絞ってあった。
女に言われたとおりに動くのがどうにも癪だったが、仕方がない。寝汗をかいたまま寝かせておくのがよくないのは事実だ。それに着替えまであの女がやろうとしていたら、さすがにそれは止めていたかもしれない。
「できた?」
貸していた静雄の服は持ち帰るとして、タオルをどうすればいいかと思案しながらリビングに出ると、女が声をかけてきた。キッチンのほうからだ。
「ああ」
「タオルは洗面所に置いておいて。洗面所の場所はわかるわよね?よかったらあなたのその服も一緒に洗濯しておくけど」
「……いや、あれは別にいい」
「そう?」
見ると女は鍋でなにかを作っているようだった。静雄の視線に気づいた女が、訊いてもいないのに「スープよ」と言った。
「あの人お粥とか好きじゃないでしょう。こんな商売しているんだから贅沢品しか食べないかと思っていたけど、わりと子供が好きなものが好きなのよね。作るこっちとしてはそんなに高レベルなものを要求されないから助かるけど」
「あんたが波江か?」
静雄の唐突な問いかけに、女は大きな瞬きを一度して、頷いた。
「そうよ。矢霧波江」
「あんたは―」
そこから先が出てこなかった。
当たり前のように電話に出て、当たり前のように来客を招きいれる。部屋の構造を知っている。服の在り処を知っている。洗濯をする。食事も作る。食べ物の好みも知っている。風邪を引く頻度まで知っている。
あの臨也がそう簡単に自分の寝室に人が入ることや、自分に触れるのを許すとは思えない。よほどの人間でない限り。

あんたは臨也のなんなんだ?

そう訊きたかった。だけど同時に、俺は臨也のなんなんだ?という疑問が立ち上がる。そしてそれを波江に問い質されたとき、なんと答えていいのかわからない。
争いはする。傷つけようとする。だけど静雄の部屋のベッドでは快楽を共有している。とことん、相手のすべてを奪おうとするくらいの激しさは、焦げるような気持ちよさで、抱くたびに愛しさにも似たものがこみ上げてくる。だけどそれを口に出したことは一度もない。
それを告げれば、臨也がどんな反応を返すかわかりきっているからだ。だから今の、名前のつけられない関係に甘んじている。

俺は、臨也のなんなんだ?

自身の位置づけさえ困っている自分が、波江が何者なのかと訊ねる資格を持っているのか?
(そんなもの―)
首を傾げる波江に背を向け、再び臨也の眠る寝室に入った。
数えるほどしか入ったことのない部屋。ここで寝たのはもっと少ない。二度くらいじゃないか?だけどそこに波江は毎日のように足を踏み入れている。
「ねえ、忘れてたわ。起きたら薬を飲まさないと。これをそこらへんに―」
いつものように、考えるよりも先に体が動いていた。自販機やガードレールを掴むときと同じ衝動だった。
波江が持っていた薬と水を奪い、水と薬を口に含む。依然息が乱れている臨也の後頭部を引っつかんで、唇を重ねた。わずかに開いた唇を舌でさらに開けさせ、含んでいた水と薬をうつす。
「んっ……」
一瞬臨也が眉を顰め、舌が異物を押し返そうとする。だけど舌でそれを押さえつけ、そのまま唇を塞いでいれば、素直に薬を飲み込んだ。
臨也の細い喉が動いたのを確認してから唇を離し、頭を枕に戻す。臨也はまだ目を覚まさない。
(薬飲まされて起きねえとか、どんだけ弱ってるんだ)