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寝言を信じてはいけません

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唇を拭いながら、波江と視線が合った。波江は無表情で静雄と臨也を眺めていた。驚きも軽蔑も好奇もない。そこからは、彼女がなにを考えているのか汲み取れない。
温度のねえ女だな、と思った。
もしかしたら静雄を殴ってやりたいのかもしれないが、そういう気配もなさそうだった。
「帰る」
これ以上、この部屋で自分ができることはない。いればこっちのほうが具合悪くなりそうだった。


「薬は食後に飲まなきゃいけないんだけど」
ドアが閉まる激しい音が聞こえ、波江はぽつりと呟いた。すると、そばで笑いを押し殺す声が聞こえた。見れば毛布にくるまった臨也が肩を震わせていた。
「やっぱり起きていたのね」
そんなことだろうと思ったのだ。なにかにつけて敏感なこの男が、人におぶわれても気づかないなんてことがあるわけがない。まして口移しで薬を飲まされたら、普通の人間だって起きるだろうに。
「まあね。いや、でも君は俺の予想どおりの動きをしてくれたよ。さすが波江さん」
普段よりも顔の赤い臨也に褒められたところで、誇らしげな気分にはこれっぽっちもなれなかった。波江はいつもやっていることをしただけだ。特別なことはなにもしていない。
「具合が悪いのも嘘なの?」
「まさか。いくら俺だって熱を自在に操れないよ」
楽しそうに笑う臨也を横目で見て、そうかしら、と波江は内心思う。この男なら、なんだって簡単に操ってしまいそうだけど。体調も、命も、恋心も。
「あの人、私がなんなのかわかっていないようだったけど、名前だけは知っていたわ。どうして?」
「寝言で君を呼んだから」
気持ち悪い、と自分を抱きしめて見せれば、臨也はそんなことは気にもしていない様子で「だよね」と頷いた。
「それで、あなたの思惑どおり彼は私とあなたの関係を誤解してくれたわけね」
「そう」
波江としては不名誉なことだ。弟以外の男と関係を結んでいる自分など、想像もしたくない。
「そんなことをする必要、どこにもないと思うけど」
最後の波江を見る静雄の眼には、明らかな嫉妬があった。これがもし、本当に波江が普通の感情で臨也と関係をもっていたとしたら、臨也のことは早急に諦めたに違いない。波江は臨也についてなにひとつ特別な感情を持ち合わせていないから、あの視線を受けとめることができた。だけど臨也に想いを寄せている人がいたとして、あの眼の強さに勝てると思う人間などそうそういないだろう。
そして、それをこの男は知っている。だからこそわざわざ嫉妬させる意味がわからない。
熱でやや潤み、いつもよりもほんのわずかに柔らかくなっている目尻が幸福そうに笑う。そうしていれば、どこから見ても見目のいい、誰もが心を奪われるような男だった。本性を知れば、百年の恋も冷めていくのだろうけれど。
「必要とか不必要だとか、そんなことは関係ないんだ。俺はただ見たいんだよ。シズちゃんがいかに俺のことを好きなのか。俺のことを独占したいと思っているのか。俺のことを欲しくて仕方がないのに我慢しているシズちゃんを、俺はひたすら見たいんだ。それだけ」
あの分じゃ、毎日でも見ているだろに。とは言わなかった。波江に言われなくても、この男は十分知っている。
荒々しい薬の飲ませ方とは反対に、枕に頭を戻すときの手つきがどれだけ優しかったかも。