洛中の畳
「さあさあ飲みましょう。せっかくの酒をオブジェにするなど芸術の神にどやされてしまいますよ」
小津が注いだ偽電気ブランとやらを私はするすると口に運んだ。まろやかな口当たりとほのかな酸味はそんじょそこらの発泡酒とはわけが違う。頭痛の存在をすっかり忘れ私はブランに舌鼓を打った。
「しかしこんなに旨い酒を一体どこから持ってきたんだ?」
私が疑問を口にすると小津は化け物のような口を歪めて化け物のように笑った。
「詫びの印でございますよ」
「詫び?」
小津の尻拭いをした記憶は数えきれぬほど持ち合わせていたが、いずれも改まって酒を献上されるほどのことではないように思えた。それほど我々学生の間で酒という存在は貴ぶべき麻薬であったが、はて、ここまで畏まる小津はいよいよ不気味である。
「何を企んでいるかは知らんが私は厄介ごとは御免だぞ。後だしは受け付けん、ジャンケンでもそうではないか」
「何をおっしゃる、僕の心は清廉潔白ですよ。さあもっとお飲みなさい、疑心に駆られていてはせっかくの酒がまずくなってしまいます」
いかにも怪しげなところはさすが小津と言うべきであろう。この男がどれだけ真摯な態度に出ようと、もはや胡散臭さは拭えない。
しかし本当に酒が美味いのでそのようなことは塵芥に等しい。私の口は勢いづいていた。気がつけば瓶の中身はすっからかんである。少々物足りなさを感じた直後、堰をきったように眠気がなだれ込んできた。
「おや、もうお開きのようですね」
私は酒の香りに包まれ夢心地であった。小津の薄気味悪い魚のような両腕がにゅるりとこちらに伸びた気がした。
翌朝、私は金棒で殴られるほどの頭痛によって目を覚ました。空しい。ただただ空しさが胸中に広がっていく。
部屋に転がる発泡酒の缶が空しさを更に強調させた。そこでようやく視界がぼやけていることに気づいた。眼鏡を探すとすぐそばにきちりと折りたたまれていた。視界が良好になる。寝ている間に落ちた眼鏡がたたまれているとは奇妙なこともあるものだ。おそらく自分でやったのだろうが、覚えていない。
私は酒の抜けきらぬ体を抱え、大学へ向かった。もちろん、まなみ号の世話になった。
大学へつくなり小津の顔を見るというのは早朝から少々アクが強かった。爽やかな空気の似合わない男は私の顔を見るなり挨拶を繰り出した。
「昨日はお気の毒でしたねぇ」
「全くだ、途中で抜け出すなど卑怯だぞ」
「卑怯こそ我々の求める舞台ではありませんか」
「あの酒がなけりゃあ今度こそ縁を切ってやるつもりだったというのに」
「あの酒?」
小津にしては珍しい返答に私は驚いた。泥酔して記憶が飛ぶなど小津にあるまじき失態である。
「覚えていないのか、偽電気ブランとかいう」
「偽?」
「おいおい本当に忘れたのか?」
「記憶にありませんねぇ。そもそも、昨日我々は会っていませんよ」
「はあ?」
今度は私が呆ける番であった。
「飲み会の後は師匠と鴨川で夜釣りに興じていたのです。あなたとは飲み会を抜け出したっきりではないですか」
小津の話に私は頭が混乱した。まだ酔いの中をうろついているのか、それとも昨晩は夢を見ていたのか、どこからが夢でどこからが現実であるか、境目がわからなくなっていた。頭痛が激しさを増していく。だがしかし。
「あなた、狸にでも化かされたんじゃないですか?」
小津の声だけははっきりと聞こえるのであった。