洛中の狸
家族そろって飯を食う。これは東西南北どこに住もうが狸も狐も天狗でさえも生涯重要なことである。餌のとり方から食事のマナー、一から百まで子は親を見て育つ。
「兄ちゃん、それおいしい?」
「うむ、美味い。おまえも食べなさい」
「ありがとう」
中でも狸は互いに助け合う生き物である。親は子を、兄弟は後から生まれたものに世話を焼く。そうして健やかに育った子らがやがて大人になり子をもうけ、それらに世話を焼くようになる。まさしく恩義の輪廻である。
「兄ちゃん、これ辛いよう」
たこわさを食った矢四郎が涙を浮かべながらもぐもぐやっているので、私はバッグから取り出したハンカチで涙を拭いてやった。なにやら視線を感じるので可憐な乙女らしく控えめな仕草でそちらを見ると視線の主は長兄であった。けったいなものを見ているような視線は若旦那の顔も相俟って冬の鴨川の如く冷たい。
「お前、もしかしてそれは気に入って化けているのか?」
それというのはつまり私の化け姿のことである。
「勘違いしてもらっちゃあ困る。俺は母上に合わせて化けているのだ。母上が美青年でなければ俺もただの大学生になっているよ」
今宵の私は見目麗しい深窓の御令嬢であった。母上が美青年に化けるのであるからつりあいというものが必要である。兄上が若旦那、母上が麗人ときて何ゆえ私がぼさぼさ頭の大学生に化けなければならないのか。面白くないではないか。
「しかしお前が女に化けるのを見るのはどうも気色が悪い」
「兄さんは女の魅力がわからんのか、この胸と尻のどこに気色悪さがあると!」
ぷりぷりとした胸を押し付けるべく長兄の腕を取ろうとした私だったが、長兄はさっと腕を引いて避けてしまった。弟の矢四郎は未だたこわさをもぐもぐやっている。噛み切れぬようである。
「そもそも何故兄さんは若旦那に化けておるのだ」
「女はお前一人で十分だ」
「もったいないわねぇ、女の子が二人もいたらさぞ派手でしょうに」
日本酒片手にほろほろと美青年が笑った。酔っていても醜態は晒さず髪の一本も乱れぬ様子は筋金入りと言わざるを得ない。流石は我らが母上である。
「でも家族全員そろっているんだし、あんまり文句は言えないわね」
母は私達をぐるりと見回して言った。
今宵の夕食は家族全員でという話になったのは今朝方あたりの話であった。真夏の朝日を浴びて焼けそうな毛を小川に突っ込み冷やしていた私は唐突に川床の存在を思い出し、せっかくなので家族そろって飯を食おうと思い立ったのである。矢二郎兄さんを連れ出すのは少々手こずったが赤玉先生に比べれば月とスッポン。実際は天狗と狸である。
その兄さんはというと先程から小皿に入れてやったビールを舐めっていた。
「そう言えばお前、少しは化けれるようになったのか?」
兄貴が問うと兄さんは小皿から顔を、いや蛙であるからもう体全体を上げてみせた。
「人間あたりはまだまだ駄目だね。精々、箸が眼鏡が精一杯さ」
そういって兄さんは眼鏡に化けて見せた。細い黒縁の丸眼鏡である。少々古風な見た目はなかなかと思ったが、やはり兄貴は不満げな顔をした。
「まったく情けない話だ」
「でも兄ちゃん、この間は叡電に化けてみせたよ」
「もっと日常的な範囲で俺は話しているんだ!」
かわいそうに弟はたこわさをもぐもぐしながらシュンと縮こまってしまった。母上が優しくその頭を撫でてやらねば、そのまま小さくなっていき危うく見えなくなるところであった。
「いいじゃないの、私は四人が元気でいればそれでいいんだから」
母上にそう言われてしまうと流石の長兄もそれまでである。私はあらかた食べ尽くした皿たちのうちからまだすこし残っていた揚げ出し豆腐をすくい食べた。うまい。
にわかに空気が乱れたので私がそちらを見やると、隅の席にいた団体が店を出るようであった。風貌からするに大学のサークルであろう。もうそんな頃合だったかと私は気付く。
「あの人たちがお会計を済ませたら、私達も出ようかね」
「うん、わかった」
母上の案に弟が返事をしたが、そろそろ寝ぼけ眼になっている。食えば眠くなるのはどんな狸とて同じであると言いたいが、それは私のようなプラプラと遊び惚けているものか、仔狸だけだ。ふと弟の尻を見れば尻尾がびょろんと出てしまっている。
「おい矢四郎、尻尾を隠せ」
「うーん」
快眠と現実を行き来する弟を私はせっついたがどうにも上手くいかぬようで、尻尾は消えかけては姿を現しを繰り返した。
私も酒でぼんやりとしていたのが悪かったが、そこへ一人の男がやってきた。先ほどのサークル連中の一人である。他が込み合っているので空いている席の間を通ろうとしたのであろうが、運の悪いことにその男が弟の尻尾を踏んだ。
「フギャッ」
「おわぁ!」
痛みに驚いた弟は狸に戻り男は滑って転びその拍子に卓がぐらつき皿が落ちる。えらいことである。すぐに店員が駆けつけたが、全ては尻尾のせいであるので申し訳ない。何より狸姿を見られるわけにはいかないので逆に困ってしまった。兄貴が店員と話す隙に私はスカートの中に弟を隠した。女に化けるとこういったところが便利であるのかと私は感動しきりであるが、それどころではない。転げていた男は起き上がると腰を押さえながら何かを探していた。私の側に眼鏡が二つ転がっている。おそらくどちらかが男のものなのであろうが、奇遇なことに兄さんの化けた眼鏡と全く同じ形であった。こうなるともうどちらが兄さんでどちらが眼鏡なのか判断がつきかねる。
ええいままよと私は手近の眼鏡を引っつかみ、男の袖をひいた。
「あのう、もしかしてこちらをお探しですか」
すっかり泥酔しているらしく、男はむにゃむにゃと口元を蠢かせて終わってしまった。おそらくこれは自分の眼鏡であるということを言っているのだろう。私の勘がそう告げるのだから、それでいい。
「お怪我は?」
男は「毛玉のようなものを踏んだ」というようなむにゃむにゃを呟く。
「きっと誰かの足がもつれたのですわ。それよりも早く店を出なければ、お会計が」
何とか立ち上がった男は私に一礼した後、千鳥足で会計へ向かっていった。ヤレヤレと私が息をつくとスカートから弟が鼻をのぞかせた。
「兄ちゃん、もう大丈夫?」
「問題ない。それよりお前、店を出るまでスカートの中にしがみついておきなさい」
「矢二郎兄ちゃんは?」
「いかんいかん。忘れる所だ」
私は畳に転がった兄さんを拾い上げた。
そこでふと気がついたが、どうもこれは清く正しく眼鏡のようであった。
「兄ちゃん、もしかして」
「皆まで言うな弟よ」
かくして、宵闇の都に兄探しの旅が始まる。
「兄ちゃん、それおいしい?」
「うむ、美味い。おまえも食べなさい」
「ありがとう」
中でも狸は互いに助け合う生き物である。親は子を、兄弟は後から生まれたものに世話を焼く。そうして健やかに育った子らがやがて大人になり子をもうけ、それらに世話を焼くようになる。まさしく恩義の輪廻である。
「兄ちゃん、これ辛いよう」
たこわさを食った矢四郎が涙を浮かべながらもぐもぐやっているので、私はバッグから取り出したハンカチで涙を拭いてやった。なにやら視線を感じるので可憐な乙女らしく控えめな仕草でそちらを見ると視線の主は長兄であった。けったいなものを見ているような視線は若旦那の顔も相俟って冬の鴨川の如く冷たい。
「お前、もしかしてそれは気に入って化けているのか?」
それというのはつまり私の化け姿のことである。
「勘違いしてもらっちゃあ困る。俺は母上に合わせて化けているのだ。母上が美青年でなければ俺もただの大学生になっているよ」
今宵の私は見目麗しい深窓の御令嬢であった。母上が美青年に化けるのであるからつりあいというものが必要である。兄上が若旦那、母上が麗人ときて何ゆえ私がぼさぼさ頭の大学生に化けなければならないのか。面白くないではないか。
「しかしお前が女に化けるのを見るのはどうも気色が悪い」
「兄さんは女の魅力がわからんのか、この胸と尻のどこに気色悪さがあると!」
ぷりぷりとした胸を押し付けるべく長兄の腕を取ろうとした私だったが、長兄はさっと腕を引いて避けてしまった。弟の矢四郎は未だたこわさをもぐもぐやっている。噛み切れぬようである。
「そもそも何故兄さんは若旦那に化けておるのだ」
「女はお前一人で十分だ」
「もったいないわねぇ、女の子が二人もいたらさぞ派手でしょうに」
日本酒片手にほろほろと美青年が笑った。酔っていても醜態は晒さず髪の一本も乱れぬ様子は筋金入りと言わざるを得ない。流石は我らが母上である。
「でも家族全員そろっているんだし、あんまり文句は言えないわね」
母は私達をぐるりと見回して言った。
今宵の夕食は家族全員でという話になったのは今朝方あたりの話であった。真夏の朝日を浴びて焼けそうな毛を小川に突っ込み冷やしていた私は唐突に川床の存在を思い出し、せっかくなので家族そろって飯を食おうと思い立ったのである。矢二郎兄さんを連れ出すのは少々手こずったが赤玉先生に比べれば月とスッポン。実際は天狗と狸である。
その兄さんはというと先程から小皿に入れてやったビールを舐めっていた。
「そう言えばお前、少しは化けれるようになったのか?」
兄貴が問うと兄さんは小皿から顔を、いや蛙であるからもう体全体を上げてみせた。
「人間あたりはまだまだ駄目だね。精々、箸が眼鏡が精一杯さ」
そういって兄さんは眼鏡に化けて見せた。細い黒縁の丸眼鏡である。少々古風な見た目はなかなかと思ったが、やはり兄貴は不満げな顔をした。
「まったく情けない話だ」
「でも兄ちゃん、この間は叡電に化けてみせたよ」
「もっと日常的な範囲で俺は話しているんだ!」
かわいそうに弟はたこわさをもぐもぐしながらシュンと縮こまってしまった。母上が優しくその頭を撫でてやらねば、そのまま小さくなっていき危うく見えなくなるところであった。
「いいじゃないの、私は四人が元気でいればそれでいいんだから」
母上にそう言われてしまうと流石の長兄もそれまでである。私はあらかた食べ尽くした皿たちのうちからまだすこし残っていた揚げ出し豆腐をすくい食べた。うまい。
にわかに空気が乱れたので私がそちらを見やると、隅の席にいた団体が店を出るようであった。風貌からするに大学のサークルであろう。もうそんな頃合だったかと私は気付く。
「あの人たちがお会計を済ませたら、私達も出ようかね」
「うん、わかった」
母上の案に弟が返事をしたが、そろそろ寝ぼけ眼になっている。食えば眠くなるのはどんな狸とて同じであると言いたいが、それは私のようなプラプラと遊び惚けているものか、仔狸だけだ。ふと弟の尻を見れば尻尾がびょろんと出てしまっている。
「おい矢四郎、尻尾を隠せ」
「うーん」
快眠と現実を行き来する弟を私はせっついたがどうにも上手くいかぬようで、尻尾は消えかけては姿を現しを繰り返した。
私も酒でぼんやりとしていたのが悪かったが、そこへ一人の男がやってきた。先ほどのサークル連中の一人である。他が込み合っているので空いている席の間を通ろうとしたのであろうが、運の悪いことにその男が弟の尻尾を踏んだ。
「フギャッ」
「おわぁ!」
痛みに驚いた弟は狸に戻り男は滑って転びその拍子に卓がぐらつき皿が落ちる。えらいことである。すぐに店員が駆けつけたが、全ては尻尾のせいであるので申し訳ない。何より狸姿を見られるわけにはいかないので逆に困ってしまった。兄貴が店員と話す隙に私はスカートの中に弟を隠した。女に化けるとこういったところが便利であるのかと私は感動しきりであるが、それどころではない。転げていた男は起き上がると腰を押さえながら何かを探していた。私の側に眼鏡が二つ転がっている。おそらくどちらかが男のものなのであろうが、奇遇なことに兄さんの化けた眼鏡と全く同じ形であった。こうなるともうどちらが兄さんでどちらが眼鏡なのか判断がつきかねる。
ええいままよと私は手近の眼鏡を引っつかみ、男の袖をひいた。
「あのう、もしかしてこちらをお探しですか」
すっかり泥酔しているらしく、男はむにゃむにゃと口元を蠢かせて終わってしまった。おそらくこれは自分の眼鏡であるということを言っているのだろう。私の勘がそう告げるのだから、それでいい。
「お怪我は?」
男は「毛玉のようなものを踏んだ」というようなむにゃむにゃを呟く。
「きっと誰かの足がもつれたのですわ。それよりも早く店を出なければ、お会計が」
何とか立ち上がった男は私に一礼した後、千鳥足で会計へ向かっていった。ヤレヤレと私が息をつくとスカートから弟が鼻をのぞかせた。
「兄ちゃん、もう大丈夫?」
「問題ない。それよりお前、店を出るまでスカートの中にしがみついておきなさい」
「矢二郎兄ちゃんは?」
「いかんいかん。忘れる所だ」
私は畳に転がった兄さんを拾い上げた。
そこでふと気がついたが、どうもこれは清く正しく眼鏡のようであった。
「兄ちゃん、もしかして」
「皆まで言うな弟よ」
かくして、宵闇の都に兄探しの旅が始まる。