洛中の狸
「全く、当てもなく探して眼鏡が見つかるわけがあるか」
兄貴の不平不満を一身に浴びせられながら私達は三条大橋までやってきた。二手に別れて探していたところを今しがた合流した所である。母上には弟を連れて先に帰っていただいた。元々は私のせいであるので、兄貴が手伝ってくれていること事態が異常である。母の言葉はどの狸よりも重い。
それにしても困っていた。あの男が何者であるのか私達には全くわからず、どこへ向かったかなど知る由もないのだ。付近に住んでいるならいざ知らず、阪急電車で洛外まで帰られてしまうともうお手上げである。
「大体、お前が呆けた頭で余計なことをするからいかん」
「なんだと」
喧嘩の一つでも始めるかと思いきや、そこで私の肩がトントンと叩かれた。
「お久しぶりね」
振り向かずともわかるのが美貌というものである。勿論私は振り向いたが、そこにはやはり弁天の姿があった。今宵は涼やかな浴衣姿にゆったりと髪を纏めており、艶やかな黒髪に刺した簪が夜の鴨川に煌いていた。ただし、右手にはブランである。弁天はほろ酔いの上機嫌であった。
「何かを探しているのね?」
弁天にはお見通しである。
「実は矢二郎を探しておりまして」
「まあ、あの蛙」
「眼鏡をかけた男に連れられてしまったのです」
「狸鍋かもしれないわ」
「滅多なことを言わんで下さい」
兄貴が渋い顔で呻いた。
「でもあんなに酔っ払っていたんじゃあ、お鍋は食べられないかもしれませんね」
「もしや知っておられるのですか」
「さあ……どうかしら……」
弁天は猫のように目を細めて鴨川の欄干に肘をついた。浴衣の袖が肘まで落ちるので、ほっそりとした手首が露になる。私はそこに目を奪われて、弁天が指した指に気付くのが遅れた。
指の示す先には、鴨川のへりで夜釣りをしているものがいる。全く釣れんであろうに酔狂なものだ。見れば片方は妖怪のような面をしているではないか。
「妖怪のようですが、あれは天狗ですか」
「あらやだ、あんなのが天狗だなんて」
ということはあの面で人間らしい。奇妙なものだ。
「下鴨幽水荘という所にね、あの片方が住み着いているのよ」
「片方というと」
「着流しの方ね」
鴨川をゆったりと流れる夜風が男の着流しを揺らせていた。暗がりでよくは見えないが、飄々とした雰囲気の男であった。
「きっとその眼鏡の人は、下鴨幽水荘の方ね。あの二人と仲がよろしくってよ」
「それは……」
本当かと兄貴が聞きかけて私はその口を塞いだ。弁天が言うのだからおおよそのことは正解と見て良い。それよりもほろ酔いの所に気分を害してしまっては、何をされるかわからない。なぜなら弁天は未だ、その名の通り金曜倶楽部の一員なのである。
「とって食いやしませんよ。とにかく場所は伝えたのだから、私はもうおいとまします」
私達の前から去って行く弁天に私は声をかけた。
「なぜこのようなことを?」
ちらりと弁天が振り返った。
「だってあたし、人間ですもの」
そのまま人ごみの中へ紛れていく弁天の白い項だけが、何度も私の目に焼きついた。
さて場所がわかると後は楽チンと言うわけにも行かず、私と兄貴は徒歩で下鴨幽水荘とやらに向かった。長兄の自動人力車は未だに修繕中なのである。
そこいらの暗がりで涎を垂らし眠っている狸を起こしては道を尋ね、私達はようやく目的の下宿へたどり着いた。男の部屋まで知ることができたのは僥倖と言えよう。
「それにしても物寂しい部屋だ」
兄貴が顔を顰めてけちをつける。その意見には私もおおむね同意だった。書物に圧迫された部屋は狭苦しく、窓を開け放っても清清しさを感じることは難しい。
兄貴は窓の縁に腰掛け、外を眺めていた。着流しが夜風に吹かれて揺れている。あの飄々とした男に化けているのだ。そうなると私は勿論、妖怪面である。
本当なら兄貴が一発、虎に化けて脅してしまえばよかったのだが、そう無闇やたらに人間を驚かせるのも哀れである。向こうさんにけしかけられたならそれもできよう。しかし、何度も言うが今回は私の起こした問題であった。ここは一つ、上手い具合に騙してやるしかない。
「帰ってきたようだ」
兄貴がそう言って数分の後、部屋の扉が開かれた。
「おい、勝手に入るなと言っているだろう」
男にとってはどうやら茶飯事のようである。
そこから私は酔っ払いの話にあわせつつブランを飲ませた。弁天が欄干に残していった偽電気ブランである。私の弁舌は見事なまでに男を騙くらかし、男は冷めかけた酔いへ再び浸かっていった。
「おや、もうお開きのようですね」
私の言葉と共に、ようやく男は眠り込んだ。兄貴はすっかり面倒になったのか、部屋に積まれていた書籍の一冊に化けている。私は男の顔から眼鏡を外し、本物の眼鏡を畳にそっと置いた。
「やあ、数時間ぶりだな矢三郎」
「悪いことをした」
「気にするな」
兄さんは笑って眼鏡のつるを震わせたが、兄貴は「兄弟そろって情けない」とぶちぶち文句を垂らす。
私達は男を残し、下宿を後にした。
再び鴨川まで戻ってきた私達であったが、未だ兄さんは眼鏡のまま、私の鼻の上に居座っていた。先を行く兄貴を追いながら、私はのんびりと歩いている。
「俺は随分楽しかったよ。人間も悪かぁないね」
兄さんが暢気に呟いた。
「油断は禁物だ」
「心配ないさ、俺は眼鏡だから」
眼鏡のつるを震わせて兄さんが笑うので、私の視界は激しく乱れた。
「何事も、面白ければそれでいい」
「阿呆の血だな」
「そうだ、阿呆の血だ」
そうして兄さんは、
「俺はしばらく、眼鏡でいるかもしれんなあ」
などと呟くのであった。