篝火【腐向け】
光のない世界では、闇に包まれているのか己が自身が闇なのか区別が付かない。
或いは別など無いのかもしれない。
暗くて冷たい奈落の底の底。
自分がいつからそこに在るのかもまた、彼は知らなかった。
しかし突如現れた篝火に、彼は己というものの存在を認めさせられることになる。
暗闇になれた瞳には強すぎる刺激に、目を細めながら見た己の外殻は意外にも人の形をしていて驚いた。
てっきり自分の身は犬畜生か地虫であろうと彼は思い込んでいたのだ。
顔を上げてみれば瞳を灼くような光はとても小さく、どこか焦がれるような思いで彼はその熱の塊にそっと手を差し出した。
佐助という少年は里を離れて真田に来たばかりの頃、ほとんど無感動な子供であった。
薄い髪色も相俟って、忍達から見ても特異な様子であったと、古くから使えている老忍は当時を振り返る。
常に口の端を上げただけ、目尻を下げただけで己と対する佐助に弁丸はよく眉根を寄せていたものだった。
しかし感情の起伏を素直に表す主に引き摺られるように佐助は心の内を表に出すことを知った。
忍として育ってきた事もあり感情を剥き出しにすることこそ無いが、幼い主の無茶に怒りもすれば他愛ない会話に笑いもする。
物の怪か何かが紛れ込んできたかと思っていたが、随分と可愛げが出て来たものだとからかわれ少しむくれて見せる様等は真田忍達の笑いを誘った。
彼の内側を引きずり出した当の弁丸は今も昔も変わらずどこにでも唯一の部下を連れまわし、その獣のようにしなやかな姿が見えなければ佐助を探して叫んで回った。
手習いに寺院を訪れるその日も弁丸は佐助を供に付けたがったが、いくら真田の領地とはいえ忍を表立って寺院に連れ込むのは憚られると、佐助よりいくらか年上の近侍が付けられた。
物腰穏やかでいつも笑みを絶やさぬ青年である。
彼は弁丸が佐助に縋るのをにこやかに眺めていた。
硯や筆をくるんだ包みを持たせた弁丸は頬を膨らませてぶすくれていたが、もう九つになるのだからと背中を押せば一度だけ恨みがましいような視線を寄越しただけで素直に青年の後に従った。
しかし門を出る直前になって馬の腹帯が切れ掛かっていることが分かり、近侍が新しいものを持ってきて付け替えるまでの間弁丸は佐助の元へ戻ってきてしまう。
また別れを惜しむ所からはじめるのかとひやひやしたが、おっとりしたところの目立つ青年にしては珍しく、腹帯を取って来て付け替えるまでそう時間は掛からなかった。
佐助は馬に乗って駆けていく小さな背が見えなくなるまで見送った後、己に課せられた仕事をこなす為に草屋敷へと足を向けた。
仕事と言っても弁丸が手習いに行っている間だけの事。大した時間をかけられる訳でもなく、せいぜい弁丸が槍の稽古で山ほど消費する傷薬を煎じる程度である。
とん、と軽く足を鳴らすと佐助は作業場を目指して駆けた。
館の中を音もなく走り抜ける姿はまさしく野猿のようだった。
”猿飛”の名に恥じぬ動きと共に、野生の勘のようなものが佐助には備わっていた。
それは今まで佐助の命を幾度となく救い、彼が若くして功績を挙げる助けとなった。
草屋敷までの道を半分まできたところで、佐助は足を止めた。
弁丸を見送ってからというもの、後ろ髪がちりちりと焦げるような、なんともむず痒い感覚が彼を襲っていたのである。
それは幼い主から離れれば離れるほど強く募っていく。
分厚い雲のかかっている空を見上げて首を廻らせれば、遠くのほうで鴉が何羽か飛び立つのが見えた。
「一雨来そうだな」
「は」
急ぐか、と言いながらも弁丸は馬を走らせるでもなく、鹿毛馬はかぽかぽのんびりした歩調で地面を蹴る。
馬を己が足のごとく操る常の弁丸を知っていれば、それは遅々として進まない行軍であったろう。
次第にぽつりぽつりと雨が降り始め、あっという間に弁丸の肩や柔らかな髪を湿らせていく。
「おお、やはり降ってきたな」
弁丸の暢気な声に今度は背後の青年からの返事は無かった。
単調な蹄の音とは裏腹に、雨が地面を打ちつける音はどんどん激しくなるばかりだ。
なかなか近づかぬ目的地にはもちろん駆け込めるはずもなく、最早弁丸の着物からは水滴が滴る程だった。
「……なにか」
ぽつりとした呟きにも関わらず、弁丸の子供らしい高い声は雨音にも負けずよく通る。
小さな手が手綱を握り締めて馬の足を止めさせれば、斜め後ろについていた近侍の乗馬も歩みを止めた。
「何か、嫌な予感がするのだ」
何かは分からないのだが。
付け足して弁丸が振り返ると、薄い雨粒の幕の向こうから剣呑な光が弁丸の目を射した。
丸い瞳に映るそれは既に親しんだ優しい青年の顔をしていなかった。
あ、という声が耳に入る前に佐助の手は素早く己の懐に潜り込んだ。
その手際や変装術から、主と対峙している男が忍であることは間違いない。
掴んだクナイを確実に背中に突き立てるには馬上の二人はまだ遠かった。
心の臓がいやにうるさい。
胃の中が引っくり返りそうだ。
佐助は足音を雨音に紛れ込ませながら出来る限りの速度で駆けた。
青年と馬の影になって弁丸の姿は佐助からはほとんど見えなかったが、跳躍するたびに迫る背中から発せられる殺気が事態の急を何より雄弁に語っていた。
研ぎ澄まされた忍の耳が激しい雨音と共に鍔の鳴る音を拾い上げる。
男の背中越しにすらりとした刀身が現れ、駄目だ、間に合わない―――
「っぐ！」
呻くような弁丸の悲鳴と共に鮮血が舞った。
馬上の弁丸が平衡を失ってぬかるんだ地面へと崩れ落ちる。
跳ね上がった泥は鹿毛馬の腹を汚した。
剥き出しになった腕に走る傷から真っ赤な血がみるみる溢れ、雨水や泥と交じり合って濁っていく。
佐助はそれを見た瞬間、体の中の全ての臓腑、血液までもが冷えていくのを感じると同時に、忍の首を手にしたクナイで掻き切っていた。
倒れた体に馬乗りになり、鮮血の溢れる喉からひゅうと息が漏れるのを聞くと、この男がまだ生きているのが無性に許せなくなった。
今度は確実に息の根を止められるよう、両手で握ったクナイを振り下ろすと男の喉下が間欠泉のように血を吹き上げ、生暖かい体液が佐助のそこかしこを濡らす。
それは雨のせいですぐ冷たくなるくせ、重くぬるついて佐助に絡みついた。
男は何度か体を痙攣させた後、あっけなく事切れた。
見下ろす顔からどんどん血の気が失せて青白くなるのを見ても佐助の心が晴れる事は無く、むしろ手の下にある喉から流れ出る血と共に指先から熱が奪われていくようだ。
このまま爪の先から頭の天辺までが冷え切ってしまったらどこかに引き戻されてしまうような気がした。
何処にだろうか。
その境界が曖昧な暗闇を、きっと己は知っている。
「……け、さすけ！」
力強い声にはっとして後ろを振り向けば、土砂降りの中を幼い主が立っていた。
抑えた左腕からはまだ止め処なく血が溢れ出し、雨粒と一緒になって小さな手を滴り落ちている。
それは彼の中から生命が外へ外へと流れ出ているようでとても恐ろしかった。
すぐにあれを止めなければ。
佐助は未だ死骸に馬乗りになっていた体を起こし、クナイを握っていた手を持ち上げた。
「あ……」
或いは別など無いのかもしれない。
暗くて冷たい奈落の底の底。
自分がいつからそこに在るのかもまた、彼は知らなかった。
しかし突如現れた篝火に、彼は己というものの存在を認めさせられることになる。
暗闇になれた瞳には強すぎる刺激に、目を細めながら見た己の外殻は意外にも人の形をしていて驚いた。
てっきり自分の身は犬畜生か地虫であろうと彼は思い込んでいたのだ。
顔を上げてみれば瞳を灼くような光はとても小さく、どこか焦がれるような思いで彼はその熱の塊にそっと手を差し出した。
佐助という少年は里を離れて真田に来たばかりの頃、ほとんど無感動な子供であった。
薄い髪色も相俟って、忍達から見ても特異な様子であったと、古くから使えている老忍は当時を振り返る。
常に口の端を上げただけ、目尻を下げただけで己と対する佐助に弁丸はよく眉根を寄せていたものだった。
しかし感情の起伏を素直に表す主に引き摺られるように佐助は心の内を表に出すことを知った。
忍として育ってきた事もあり感情を剥き出しにすることこそ無いが、幼い主の無茶に怒りもすれば他愛ない会話に笑いもする。
物の怪か何かが紛れ込んできたかと思っていたが、随分と可愛げが出て来たものだとからかわれ少しむくれて見せる様等は真田忍達の笑いを誘った。
彼の内側を引きずり出した当の弁丸は今も昔も変わらずどこにでも唯一の部下を連れまわし、その獣のようにしなやかな姿が見えなければ佐助を探して叫んで回った。
手習いに寺院を訪れるその日も弁丸は佐助を供に付けたがったが、いくら真田の領地とはいえ忍を表立って寺院に連れ込むのは憚られると、佐助よりいくらか年上の近侍が付けられた。
物腰穏やかでいつも笑みを絶やさぬ青年である。
彼は弁丸が佐助に縋るのをにこやかに眺めていた。
硯や筆をくるんだ包みを持たせた弁丸は頬を膨らませてぶすくれていたが、もう九つになるのだからと背中を押せば一度だけ恨みがましいような視線を寄越しただけで素直に青年の後に従った。
しかし門を出る直前になって馬の腹帯が切れ掛かっていることが分かり、近侍が新しいものを持ってきて付け替えるまでの間弁丸は佐助の元へ戻ってきてしまう。
また別れを惜しむ所からはじめるのかとひやひやしたが、おっとりしたところの目立つ青年にしては珍しく、腹帯を取って来て付け替えるまでそう時間は掛からなかった。
佐助は馬に乗って駆けていく小さな背が見えなくなるまで見送った後、己に課せられた仕事をこなす為に草屋敷へと足を向けた。
仕事と言っても弁丸が手習いに行っている間だけの事。大した時間をかけられる訳でもなく、せいぜい弁丸が槍の稽古で山ほど消費する傷薬を煎じる程度である。
とん、と軽く足を鳴らすと佐助は作業場を目指して駆けた。
館の中を音もなく走り抜ける姿はまさしく野猿のようだった。
”猿飛”の名に恥じぬ動きと共に、野生の勘のようなものが佐助には備わっていた。
それは今まで佐助の命を幾度となく救い、彼が若くして功績を挙げる助けとなった。
草屋敷までの道を半分まできたところで、佐助は足を止めた。
弁丸を見送ってからというもの、後ろ髪がちりちりと焦げるような、なんともむず痒い感覚が彼を襲っていたのである。
それは幼い主から離れれば離れるほど強く募っていく。
分厚い雲のかかっている空を見上げて首を廻らせれば、遠くのほうで鴉が何羽か飛び立つのが見えた。
「一雨来そうだな」
「は」
急ぐか、と言いながらも弁丸は馬を走らせるでもなく、鹿毛馬はかぽかぽのんびりした歩調で地面を蹴る。
馬を己が足のごとく操る常の弁丸を知っていれば、それは遅々として進まない行軍であったろう。
次第にぽつりぽつりと雨が降り始め、あっという間に弁丸の肩や柔らかな髪を湿らせていく。
「おお、やはり降ってきたな」
弁丸の暢気な声に今度は背後の青年からの返事は無かった。
単調な蹄の音とは裏腹に、雨が地面を打ちつける音はどんどん激しくなるばかりだ。
なかなか近づかぬ目的地にはもちろん駆け込めるはずもなく、最早弁丸の着物からは水滴が滴る程だった。
「……なにか」
ぽつりとした呟きにも関わらず、弁丸の子供らしい高い声は雨音にも負けずよく通る。
小さな手が手綱を握り締めて馬の足を止めさせれば、斜め後ろについていた近侍の乗馬も歩みを止めた。
「何か、嫌な予感がするのだ」
何かは分からないのだが。
付け足して弁丸が振り返ると、薄い雨粒の幕の向こうから剣呑な光が弁丸の目を射した。
丸い瞳に映るそれは既に親しんだ優しい青年の顔をしていなかった。
あ、という声が耳に入る前に佐助の手は素早く己の懐に潜り込んだ。
その手際や変装術から、主と対峙している男が忍であることは間違いない。
掴んだクナイを確実に背中に突き立てるには馬上の二人はまだ遠かった。
心の臓がいやにうるさい。
胃の中が引っくり返りそうだ。
佐助は足音を雨音に紛れ込ませながら出来る限りの速度で駆けた。
青年と馬の影になって弁丸の姿は佐助からはほとんど見えなかったが、跳躍するたびに迫る背中から発せられる殺気が事態の急を何より雄弁に語っていた。
研ぎ澄まされた忍の耳が激しい雨音と共に鍔の鳴る音を拾い上げる。
男の背中越しにすらりとした刀身が現れ、駄目だ、間に合わない―――
「っぐ！」
呻くような弁丸の悲鳴と共に鮮血が舞った。
馬上の弁丸が平衡を失ってぬかるんだ地面へと崩れ落ちる。
跳ね上がった泥は鹿毛馬の腹を汚した。
剥き出しになった腕に走る傷から真っ赤な血がみるみる溢れ、雨水や泥と交じり合って濁っていく。
佐助はそれを見た瞬間、体の中の全ての臓腑、血液までもが冷えていくのを感じると同時に、忍の首を手にしたクナイで掻き切っていた。
倒れた体に馬乗りになり、鮮血の溢れる喉からひゅうと息が漏れるのを聞くと、この男がまだ生きているのが無性に許せなくなった。
今度は確実に息の根を止められるよう、両手で握ったクナイを振り下ろすと男の喉下が間欠泉のように血を吹き上げ、生暖かい体液が佐助のそこかしこを濡らす。
それは雨のせいですぐ冷たくなるくせ、重くぬるついて佐助に絡みついた。
男は何度か体を痙攣させた後、あっけなく事切れた。
見下ろす顔からどんどん血の気が失せて青白くなるのを見ても佐助の心が晴れる事は無く、むしろ手の下にある喉から流れ出る血と共に指先から熱が奪われていくようだ。
このまま爪の先から頭の天辺までが冷え切ってしまったらどこかに引き戻されてしまうような気がした。
何処にだろうか。
その境界が曖昧な暗闇を、きっと己は知っている。
「……け、さすけ！」
力強い声にはっとして後ろを振り向けば、土砂降りの中を幼い主が立っていた。
抑えた左腕からはまだ止め処なく血が溢れ出し、雨粒と一緒になって小さな手を滴り落ちている。
それは彼の中から生命が外へ外へと流れ出ているようでとても恐ろしかった。
すぐにあれを止めなければ。
佐助は未だ死骸に馬乗りになっていた体を起こし、クナイを握っていた手を持ち上げた。
「あ……」